琉球の正史「中山世鑑」などを解説 沖縄県立博物・美術館の田名館長が講座


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「中山世鑑」や「中山世譜」について実物の写真を紹介しながら解説する県立博物館・美術館の田名真之館長=18日、那覇市おもろまちの同館

 琉球の正史である「中山世鑑(ちゅうざんせいかん)」や「蔡鐸本中山世譜(さいたくぼんちゅうざんせいふ)」「蔡温本中山世譜(さいおんぼんちゅうざんせいふ)」が国の重要無形文化財へ指定されることを記念し、沖縄県立博物館・美術館は18日、那覇市おもろまちの同館講堂で「琉球の正史」をテーマにした講座を開いた。琉球史が専門の田名真之館長が講師を務め、三つの正史それぞれの特徴について、背景も含め、分かりやすく解説した。講堂と別室の映像で視聴した人を含め、計約150人が来場した。

 1650年に羽地朝秀が編集した琉球最初の正史が「中山世鑑」。「中山世譜」のうち、蔡鐸本は外交文書「歴代法案」の編集責任者だった蔡鐸が「中山世鑑」を穴埋めし、1697年から1701年にまとめた。蔡鐸の息子・蔡温は中国側の記録を見た上でさらに加筆・修正を加え「蔡温本中山世譜」を1724年に編集した。

 田名館長はこうした流れを解説した上で、大型スクリーンで実物の記述部分を示しながら読み解いた。

 第5代国王・尚金福の死語、王位継承を巡って王の子どもと弟が争った「志魯(しろ)・布里(ふり)の乱」は、「中山世鑑」や「蔡鐸本中山世譜」には記述されていないことにも触れた。中国側の記録である「中山沿革誌」に「志魯・布里の乱」について記されていることを踏まえ、蔡温が「蔡温本中山世譜」で記述したという。

 蔡温本での記述について田名館長は「(志魯・布里の乱で)首里城が全部焼けたように見える」と指摘した。しかし、蔡温が参考にした「中山沿革誌」では「志魯・布里の乱」で「府庫」は焼けたことが書かれているが、首里城が焼けたとの記述がないという。

 田名館長は「首里城全体が焼けたわけではないかもしれないということも言われている。本当に志魯・布里の乱はあったのかとの指摘もある」と話し、正史の記述を巡っても事実関係を含め、多様な見方があることを説明した。

 田名館長は、史料を通して歴史を読み解く視点について触れ「事実は一つだが、時代や社会、人によって捉え方や視点で解釈が異なる。歴史はいつでも現代史であると言える」との見方を示した。