復帰前の沖縄から射ぬいた一矢 東京五輪で公開演武 弓道・東史子<沖縄五輪秘話12>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
弓道を始めたばかりの頃の東史子(中央)。当時は県立第二高等女学校1年生=1942年撮影(「沖縄県弓道連盟45年のあゆみ」より)

 キリ、キリ、キリ―。半月にしぼった弓のきしむ音が静寂に包まれた日本武道館に響く。シャッ。弦(つる)から放たれた矢が張り詰めた空気を切り裂き、タンッ、と軽快な音を立てて的中すると、国内外から詰め掛けた1万1千人による万雷の拍手が日本武道の大殿堂にこだました。

 第18回五輪東京大会第6日の1964年10月15日。世界に国の伝統武道を発信しようと開かれた弓道、剣道、相撲のデモンストレーション(公開演武)。3競技を通して沖縄からただ一人参加したのが、全国から10人という狭き門をくぐり、弓道一般女子に名を連ねた東(あずま)史子(旧姓・仲田、享年87)だ。

 59年に東京五輪の開催が決定した後、初のオリンピアン誕生へ選手強化に腐心したが、ついにその夢を果たせなかった沖縄。しかし、郷土の期待をまとった東の一矢はオリンピック史に確かな足跡を残した。当時36歳。まだ称号はなく、段位は五段だった。演武後は「本当にほっとしました」と語り、大役を全うした安堵(あんど)感からそっと目頭を押さえた。

■「自分でもできる」

 後に女性初の県弓道連盟会長を務めるなど、沖縄弓道界の発展に身をささげた東の故郷は伊是名村伊是名。28年1月3日、6人きょうだいの4番目、次女として生まれた。未熟児だったため、家族は「こんなに小さな子が無事に育つのか」と心配が尽きなかったという。小児ぜんそくも抱え、朝礼が長引くと貧血で倒れて医務室に運ばれることもしばしば。「沖縄県体育協会史」(県体育協会発行)に掲載された寄稿文では「友達が元気に飛び回っているのを木陰でうらやましく眺めているだけであった」と振り返る。

 転機は県立第二高等女学校に入学した42年。体の弱さを心配した担当教諭に「屋内でできる弓道部がいいんじゃないの」と勧められた。日常から程遠いところにあった運動。「ぜんそくがひどくならないだろうか」「弓道なら私にもできるのかな」。悩んだ結果、稽古で弓を引く先輩の凛とした姿に憧れ、入部した。

東京五輪の弓道公開演武で堂々と弓を放つ東史子(左から2人目)。後方の客席は国内外からの観客で埋め尽くされている=1964年10月15日、日本武道館(沖縄県体育協会史より)

 もちろん初めは的を射ることはかなわなかったが、弓を引いてみて「私にもできそうだ」と胸の高鳴りを感じた。生まれて初めて体感するスポーツのやりがい。すぐにのめり込み、早朝、放課後と毎日稽古に明け暮れた。8カ月後に初段を取得し、2年生となった43年11月の県健民武道大会女学校の部で優勝。母・カミは「体の弱かった史子が一等になった」と大喜び。賞品のお茶を隣近所に配って回った。「母の姿に思わず涙が出た」と生涯感謝は尽きなかった。

 3年生になると戦時色が一層濃くなり、学生も防空壕(ごう)や飛行場づくりに駆り出されるようになった。生来体の弱い娘を心配した両親は東の兄がいる長崎県へ疎開させることを決めた。東は長崎県立佐世保高等女学校(現同県立大)に転校し、ここでも弓道部に入って在学中に二段を取得した。終戦後の46年3月に卒業し、翌47年に伊是名島へ引き揚げ、伊是名初等学校の教師となった。

■競技再興と研さん

 戦禍で荒廃し、衣食住にも事欠く終戦直後の沖縄。弓道においては米軍が「弓は武器なり」と断じ、厳しい禁止措置を取った。愛好家たちは競技の再興を目指し、繰り返し琉球政府を通して米軍司令部に弓道の許可を陳情。ついに57年、禁止令が解かれ、59年には沖縄弓道連盟(現県弓道連盟)が発足、主席公舎敷地内に弓道場が建設された。全日本弓道連盟の設立から10年遅れでの再出発だった。禁止の間も「弓道の本や自分の『心』の中で弓を引いた」と競技愛を秘め続けていた東は、振興に向けて常任理事に就いた。

 61年には那覇高に弓道部を組織し、指導に当たった。当時は夫・正利の故郷、玉城村に住み、商店を営みながら4人の子育てにも奮闘する日々。それでも連日片道2時間バスに揺られて那覇市の道場に通い、自己研さんも続けた。同年の秋田国体で念願の国体選手に初選出。2年後の63年、自身2度目の国体となる山口国体で、後に「私の終生忘れられない日」と振り返る栄光の時を迎える。

 (敬称略)
 (長嶺真輝)