5カ月に及ぶ猛特訓を経て、世界中に日本の伝統武道を発信する東京五輪デモンストレーション(公開演武)の弓道一般女子代表選手10人の一人に選ばれた東史子。本番は1964年10月15日、会場は国内武道の聖地・東京の日本武道館。出場前、新聞の取材に決意を述べている。「この日のために毎朝3時間稽古した。日本古来の弓道を一生懸命やるだけです」
白いたすきを掛け、気風漂う紫紺の袴(はかま)に身を包む。腰には日の丸と「東」「AZUMA」の刺しゅうが入ったゼッケンを付けた。高校男女チームが演武を終えた午後1時ごろ、出番が訪れた。
■無心の一矢
5人が横一列に並び、順に2射ずつを放つ。東は2番目。1人目は先頭の緊張感からか外した。会場の空気がぴんと張り詰める。自身の名前が日本語と英語で紹介されると、1万1千人の期待のまなざしが一身に注がれた。手のひらに汗がにじむ。胸の鼓動が早まっていった。
足踏み(足を開く動作)をし、腰を据え、背筋を真っすぐに伸ばす。一度、呼吸を整える。次に矢をつがえ、的を見据えた。2メートル余りの弓を打ち起こし、頭上からゆっくりと左右に引き分けていく。県立第二高等女学校で弓道を始めてから22年。何度も繰り返し、洗練さを追究してきた「八節」(射法の8つの一連動作)の動き。よどみなく一つ一つをこなすうち、無心になっていった。
引き分けが完成し、心身が一体となった瞬間、矢を放った。見事的中すると、せきを切ったように盛大な拍手が沸き起こった。第2射は惜しくも外れたが、代表者としての大任を全うした。琉球政府の職員に「ご苦労さん」とねぎらわれ、ぽんと肩をたたかれると、すーっと緊張が解け、同時に涙がこぼれ落ちた。表情は晴れやかだった。
「栄光に輝く沖縄の女性物語 第一巻」(同編集委編)で演武中の心境を語っている。「全世界の人たちの前で日本の代表選手として日本の国技の一つである弓道を紹介するのです。とても緊張し、胸が張り裂けるほどでした」。沖縄がまだ米統治下の時代に、日本を代表して一矢を放ったことを後々まで誇りとし、沖縄県体育協会史の寄稿文には「私にとってこの上ない栄誉であった」とつづった。
■「射即生活」
那覇市で化粧品店を営みながら、研さんは続く。選手や指導者として国体にも参加し、82年に県勢として初めて八段の昇段審査に合格。全国でも女性として4人目という快挙だった。2年後の84年には県内で女性初の日本体育協会公認コーチに。競技歴50年の節目となった92年には、最高の称号である範士に昇格した。
同年6月9日に称号授与の報告で琉球新報社を訪れた東は「これを機にさらに心身を磨き、後輩の模範となるよう努力します」と喜び、当時の県体育協会会長の吉田正善は「沖縄スポーツ界にとって朗報だ」とその功績を称賛した。範士八段は現在に至るまで、沖縄の弓道史で東ただ一人だ。
口癖は「射即生活」。弓道の心である「礼節」や「不動心」を普段の生活面でも実践することを重要視した。次女の渡辺瑠美子(71)=東京都在住=は「『やり始めたら最後までやり切りなさい』とよく言っていた」と懐かしむ。女性の社会進出に対する意識も高く、強さと優しさを兼ね備えた人柄だった。一番弟子の新垣真理(66)は「煎餅が1枚だけあったとしたら、必ず割って他人に分ける人。とても上品で、優しかった。弓道にはとても厳しかったですけどね」と振り返る。
2000年に那覇市のパシフィックホテル沖縄で開かれた秋の叙勲の祝賀会では気品あふれる白の袴姿で一矢を放ち、沖縄弓道界の第一人者であり続けた熟練の弓射を披露した。80歳ごろまで弓を引き、15年6月16日、87歳で永眠した。
瑠美子によると、13年に2度目の東京五輪開催が決まった際には「一緒に見に行きましょうね」と楽しみにしていたという。人生を通し、沖縄弓道の先頭をひた走った母を思い「また公開演武があったら見たかったでしょうね」と想像する。1年延期された東京五輪。天国で今や遅しと開催を待ち望んでいるやもしれない。
(敬称略)
(長嶺真輝)
(「東史子」の項おわり。)