沖大2選手、独立リーグで挑戦 難病を克服した高島、投手転向半年の幸地


社会
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(左)キャッチボールで汗を流す幸地亮汰=11日、那覇市国場の沖縄大学アネックス共創館 (右)打撃練習に励む沖縄大の髙島輝一朗=11日、那覇市国場の沖縄大学アネックス共創館(ともに大城直也撮影)

 野球の独立リーグ、四国アイランドリーグ(IL)のトライアウトに沖縄大の2選手が合格を果たした。野手の髙島輝一朗(22)=沖縄尚学高出=と、投手の幸地亮汰(22)=与勝高出=だ。病から回復を遂げ、50メートル5秒7の俊足と長打が売りの髙島、6月に投手へと本格的に転向し、最速148キロを武器にする幸地。今後、強豪・徳島インディゴソックスとの入団交渉に臨む。いずれはプロ野球(NPB)入りすることも夢に、育成で定評のあるILでのチャレンジへと進み出す。

(上江洲真梨子)


難病を克服、努力し成長 髙島輝一朗

 髙島は何度も苦難を乗り越え、幼いころからのプロの夢を追い掛けてきた。急性リンパ性白血病を5歳ごろに発症。回復した小学3年から野球を始めるとめきめきと頭角を現し、野手、投手として活躍した。

 仲の良いチームメートの幸地は、中学では対戦経験はなかったと言うが「走攻守の三拍子そろって群を抜いてうまい、とうわさだった」と振り返る。

髙島輝一朗

 甲子園を目指し、強豪の沖尚に進学を決めたが、与那原中学3年で再発。練習はもちろん登校できない時期も続いた。「期待されて入学したが、応えられない悔しさ、激しいポジション争いに加われないもどかしさがあった」。治療を終えたのは高2の3月。筋力は落ち、感覚も鈍り、一度も公式戦に出場することはなかった。「ベンチ入りもできず、悔しさがあった。まだ野球がしたい」と沖縄大へ進んだ。1、2年時は練習についていくのも必死な日々。ただ、大城貴之監督は「人一倍努力家で、彼の姿を見てみんなも刺激されていた」と野球に向かう姿勢を認めていた。

 再び才能の芽が出て結果につながり始めたのは大学3年。徐々に公式戦出場も増え、足の速さを生かしたプレーに磨きを掛けてきた。実戦感覚がなかった分「打席に立つ時々を大事にしていた。基本的な部分、自分のやりたいバッティングを発揮できるよう心掛けた」と経験を積んできた。

 ことしの九州地区選手権南部九州ブロック沖縄地区予選では指名打者としてベストナインにも選出され、有終の美を飾った。

 「たくさんの人に夢と希望を与えられる選手になりたい」と活躍を誓う。


未開拓の才能、将来性大

 野手から転向して約半年。幸地は、伸びしろを感じさせる投球で、独立リーグ入りをものにした。大城貴之監督は「まだまだピッチャーとしての才能は未開拓。変化球を磨き球速を上げればもっと上も目指せる」と将来性に期待を寄せる。

幸地亮汰

 転身のきっかけは、新型コロナウイルスで中止となった春季リーグだった。例年、大学3年の春季リーグで引退し、秋季は希望者のみが参加する。春季リーグが中止となり、そのままの引退も考えた。だが、小学校から毎試合の応援に駆け付けてくれる父から「野球をする姿をもう一度見たい」との言葉を掛けられ、一念発起した。

 メンバー争いの激しい外野手から、投手へのコンバートを自ら申し出たが、最初は「思い出(づくりが)半分」。6月の活動再開から本格的に投球練習を開始し、7月の沖縄電力とのオープン戦。1イニングだけの登板だったが、148キロを記録する。「周囲から速いとは言われていたが、初めて測って驚いた」とこれが自信となった。

 自慢の直球で押しつつ、スライダーやスプリット、カット系の変化球を織り交ぜ打者を打ち取っていく。

 実戦での登板が少ない分「変化球の切れなどもっと修正できるところはある」と向上心が尽きることはない。

 制球力など課題もあるが「もっと成長して最速150キロに伸ばし、変化球も磨きたい」と今から胸を膨らませている。