沖縄での予選大会で、聴覚障がい男子三段跳びの日本記録を上回る11メートル10の好記録を出して東京パラリンピックの国内大会の代表に決まった牧志宗八郎(77)=当時(21)。高校時代には11メートル50センチ台も跳んでおり、パラ本番に向けた合宿など猛練習でさらに強化を果たす。陸上と水泳の代表選手7人は11月13日からの大会に向け、5日に沖縄を出発。鹿児島を経由して7日に大会地・東京入りした。
11メートル31センチ
男子三段跳びには計8人がエントリーしていた。跳躍は3回。牧志は1回目を成功させるものの、記録は伸びなかった。
2回目は踏み切りラインを飛び出してファウルに。後がなくなり、一気にプレッシャーが襲いかかってきた。「絶対に失敗できない。自分の跳躍だけに集中していた」と懸命なジャンプで、宙を舞っての着地。「ありったけの力を振り絞った」という最終3回目は8人中最長の11メートル31センチの記録をたたき出した。自らの跳躍がトップになると分かった瞬間、平安常実総監督と抱き合って涙を流した。
「見た目にもすごい人たちがそろっていると思い、金メダルは無理だと思っていた」と振り返る。夕方に表彰式があった。それまでがむしゃらに跳躍に向き合い、試合のことだけを考えてきた。メダルをかけてもらった瞬間「やってきたことが報われた」と緊張の糸が緩み、喜びの感情が一気に込み上げていた。
くしくも会場は織田フィールドと呼ばれる代々木公園陸上競技場。少年時代の牧志が憧れ、究めてきた種目の第一人者、織田幹雄のゆかりの競技場で、表彰台の頂点に立った。
56年後の現在、牧志は当時の様子を鮮明に覚えていた。「あれは特別な経験だった」。競技場で跳んだ直後の青年のような生き生きとした表情で語った。
想定外の祝福
沖縄選手団は他にも肢体不自由の部で新垣清徳(当時26歳)が100メートルと走り高跳びで2個の金、島袋ヒデ子(当時17歳)が60メートル走、立ち幅跳びで2個の金を獲得した。全員が入賞し、金6個、銀3個の快挙だった。
沖縄代表として日本国内の大会に出場を果たし、各県代表と肩を並べて戦っての大躍進である。25日に沖縄に戻った代表団を多くの人々が那覇港で出迎えた。
25日の琉球新報夕刊は社会面トップで「“日本一”にわく那覇港」「胸に輝く金メダル」の見出しで凱旋(がいせん)を伝えた。歓待は那覇港での出迎えにとどまらなかった。一行を乗せた車はそのまま国際通りへ移動。祝勝パレードへと流れ込んだ。道の両側には多くの人が集まり、たたえてくれた。
驚いたのは選手の方である。港で家族らが待ち受けていたことを「母や親戚が迎えてくれて涙を流して喜んでくれた」と喜んだ牧志だったが、パレードまで用意されているとは思いもしなかった。
「当時の障がい者の大会は健常者に比べると雲泥の差があった。パラリンピックでもあり、県民の反応は大したことないと思っていた。多くの人たちが道を埋めていて祝福してくれたのですごくびっくりした」と述懐する。
収穫
当時の沖縄身体障害者団体連合会の久場景善会長は大会後、新聞取材に答え「パラリンピック参加の意義ははかり知れないものがある。まず参加することに意義があると考え、選手たちにもいいきかせた。しかし勝負をやるからには、恥じない成績をあげるよう努力した。予想以上の成績をあげたときはユメのようだった」。牧志らの活躍は沖縄の他の障がい者にも勇気を与えるものだった。
収穫は成績だけではなかった。牧志は開会式での入場行進の前、近くにいた埼玉選手団とのやりとりを覚えており「埼玉では、ろう者が野球もやっていることを紹介してくれて、今度沖縄で野球をやろうかと盛り上がった」。
日本選手のみが出場したパラ2部の国内大会だったが西ドイツ選手も一部エントリーしていた。他県だけでなく、海外でも同じように障がいを持った人々がスポーツを続けている。牧志ら選手にとっても大きな刺激を受けた経験だった。
牧志は「東京大会をきっかけに障がい者スポーツが広く認知されるようになった」と感慨深そうに話す。
半世紀以上が過ぎ、来年に再びの東京パラリンピックが控える。次の大会は共生社会の実現に向け、どのようなエポックをしるすことになるか。失われることのない輝きを放ち続ける金色のメダルを大切にし続ける牧志。再び東京に集った世界のパラアスリートが紡ぎ出すドラマを楽しみにしている。
(敬称略)
(大城三太)
(「東京パラリンピック」の項おわり)