9条守る決意も固かった 記者から見た安里要江さん 島袋社会部長


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自身の戦争体験の話をする安里要江さん=2016年8月18日、北中城喜舎場

 2、3畳ほどの大きさだろうか。安里要江さんといえば、1945年の沖縄戦の体験を語る時には大きな自作の避難経路図を壁に掛け、当時の状況を丁寧に振り返る姿が真っ先に浮かぶ。出会いは2000年代、取材からだった。

 安里さんは80代で、語り部活動に専念していた。県内外からの平和学習の場に招かれては、肉親11人を奪った戦争の愚かさと平和の尊さの重要性を訴え、「軍隊は住民を守らない」という教訓を発信し続けてきた。

 沖縄戦から60年目となる2005年だったかと思う。20~30代の新聞社社員の全国集会が沖縄県内であり、沖縄側の幹事役として講演を安里さんに依頼したことがある。講演の日、安里さんは自宅のある北中城村から那覇市まで、冒頭の避難経路図を携えて一人で来た。片手につえを握り、もう一方の手で経路図を指しながら進行した。

 講演後、あいさつをしようと集まった若者らに対して「私の体験を聞きたければ、いつでも連絡して」と笑顔を見せ、差し出された名刺を受け取っていた。

 安里さんは1920年生まれ。45年の沖縄戦で、実家のあった北中城村喜舎場から家族で激戦地となった南部へ南下し、およそ3カ月逃げ回った。避難した轟の壕(糸満市)では、日本兵が銃剣を見せながら「子供を泣かすな。泣かすと、殺すぞ」と脅した。安里さんを含め、沖縄戦では一般住民がこのような体験をした。

 県平和祈念資料館では、再現模型が展示され、沖縄戦の実相を示す体験として知られている。

 9カ月の長女・和子さんが餓死し、4歳の長男や夫、父母なども戦争で命を奪われた。戦後に再婚。婦人会などで活躍し、北中城村議を3期務めた。81年に「全国働く婦人の集い」の講演会に参加したことをきっかけに語り部の活動を始めた。

 安里さんが講演で強調していたことに、戦争放棄をうたう日本国憲法第9条の改憲阻止がある。2005年4月、衆参両院の憲法調査会は最終報告書をまとめ、9条を含む改正の必要性を打ち出した。顕在化する改憲論議に強い危機感を抱き、結成した「第9条の会・沖縄うまんちゅの会」の共同世話人代表も務めた。幾度かのインタビューで「私は戦争体験を語り続け、9条を守る。戦争につながるような法律を作ってはいけないし、絶対に憲法は変えてはいけない。軍隊は住民を助けないし、守らない」と声を荒らげて答えていたことが思い出される。

 体調を理由に語り部活動に区切りを付けたのは19年5月。最後に講話した喜舎場公民館で、修学旅行生らに語り掛けた。「命ある限り語るのが私の使命だった。二度と悲惨な戦争が起きないよう、みなさんも後世に伝えていってほしい」。民の目線で戦を見詰める。安里さんの思いをつないでいく。

 (社会部長・島袋貞治)