放送作家・キャンヒロユキさん 幸せ、救いをお笑いで 仕掛け側から芸人鼓舞 藤井誠二の沖縄ひと物語(20)


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 通称、キャンポーズ。ぼくもどこかの居酒屋で本家本元から頼まれて両手で頬(ほほ)を覆った。不思議な気分になった。「キャンポーズ」は10年ほど前に、放送作家のキャンヒロユキさんが手がけていたインターネット番組「真栄平商店」から生まれた。番組が終わるとみんなで記念写真を撮るのが常だったが、「いつも同じメンバーの記念写真だから、おちゃらけたポーズをつけて撮ったら、次の週リスナーさんから、『先週のあのポーズで写真撮りたいです』って誘われて定着しました。みんなで揃(そろ)えてできる、恥ずかしがり屋の人にもできる、未来への希望とちょっとした不安を表現しています」と、自信たっぷりにふざけた。

 放送局に勤める人たちですら、「放送作家」という存在にピンとこない時代から、キャンさんは放送作家という看板を掲げて活動していた。当時、大学2年生。プロになる前から放送作家という仕事に興味があったというから、結果的に、沖縄のお笑いを県内外から見つめてきた時間は長い。

「将来への希望とちょっぴり不安を表した」キャンポーズをキメるキャンヒロユキさん=9月18日、那覇市のむつみ橋交差点(ジャン松元撮影)

ダウンタウンに夢中

 「中学校の時にテレビで『花王名人劇場』でたまたま、ダウンタウンさんの漫才を見て、彼らの笑いにハマッてしまった。彼らがまだ東京で全然知られてない頃で、それから毎日、新聞のラテ欄(番組表)で『ダウンタウン』の文字を、目を皿のようにして探していました。2年後、やっと全国放送の番組が始まって、録画したビデオを毎日子守歌替わりに見てましたね」

 中高一貫で、高校は寮に入った。「生意気なやつだと思われていた」らしく、同じ寮の同級生たちから疎んじられていると感じていたが、週に1回、食堂で寮生が集まって、お笑い番組を見て一同で爆笑した。

 「お笑いっていいなと思ったときは、その瞬間だったかもしれないですね。ダウンタウンの冠番組がいくつも始まり、エンドロールで番組の“構成”という言葉と名前が出ていて、芸人の裏で笑いを考えているやつがいるぞ、放送作家とか構成作家という仕事があることを知ったんです」

 高校は進学校だったが将来を思い描けず、「ピーターパンシンドロームみたいになって」、勉強は手につかなくなり、那覇の公園に毎日後輩たちとたまるようになった。

 「学校からドロップアウトした後輩が集まって、公園で大喜利やったり、近くの小学校のグラウンドでバスケやってました。当時は沖縄市に住んでましたが、日曜日も通ってましたね。そこで思いついた面白いことを後輩にやってもらったりして、自分よりも人が笑いを取る喜びを感じるようになって。ダウンタウンは相変わらず繰り返し見てましたが、自分ならこうボケるなとか考えたり、松本人志さんがボケをどのタイミングで思いついているかを観察したり、トークの振り方とか間にも気がいくようになりました」

初めてのギャラ

車内で構成を練るキャンヒロユキさん=9月18日、那覇市内(ジャン松元撮影)

 大学2年が終わる頃、たまたま新聞で、沖縄の芸能事務所FEC主催のお笑いライブの案内を見つけた。フラッと見に行ったライブで手渡されたフライヤーに「芸人、スタッフ、構成作家募集」とあり、初めて沖縄で、構成作家の言葉を見た。面接を受けたら、沖縄でも構成作家やりたいやつが出てきたか、と面接をしたファニーズ山城達樹さんに大歓迎された。

 翌週、ファニーズ生放送のラジオ番組に見学に呼ばれた。頼まれるまま、仕込みのファクスを1枚書いた。はじめてのギャラは、その時に貰(もら)った、余った弁当だ。

 FECに所属して3年ほど活動したが、もともと放送作家のない沖縄にいるよりは、と吉本興業の養成所・NSCに入学。面接で、構成作家コースがないと言われたが、芸人として目立てば作家の卵として扱う、という約束を取り付けた。入学後はコンビを組んで、350人から上位7組に残り、他芸能事務所との対抗戦ライブのオオトリをつとめた。ウケた。翌日NSCに行き、作家にしてくださいと頼むと、約束通り作家として各講義のネタ見せや番組企画をただ1人学ばせてくれた。

いつか恩返しを

 3年ほど活動して沖縄へ。放送作家として活動を始める中、通信制の高校で、数学と表現を担当することになった。大学では数学の教員免許を取得していた。教師歴は15年以上。

 「多い時は週3回、対面で授業をおこなっています。考えることをあきらめない、というメッセージをいつも生徒に送っています。教科書はあまり使わず、自分で作ったプリントを解いてもらいます。たとえば、桂三度(世界のナベアツ)さんのネタを真似(まね)て、1~30までの数字を、3がつく数字と3の倍数だけアホな数字で書きなさい、という問題とか。アホな数字なんてわからない、と言う生徒に、おまえなりのアホな数字を書いてみて、と。実は数学の思考って笑いを書くときも大切なんです」

 キャンさんはお笑いについて「笑わせるというのも仕事だけど、人をニコニコさせる、幸せを感じさせるのもお笑いの仕事だよって」と若い芸人に教え、鼓舞している。

 今年、妹の十三回忌を終えた。父の還暦祝いの帰り、高速道路上で居眠り運転のクルマに衝突されて、婚約者と一緒に亡くなった。悲しみの中、芸人たちが、キャンさんの喪失感を思いやりながらも、ラジオや舞台でいつも以上に人を笑わせようとしてくれた。心に沁(し)みた。「芸人たちがバカなことを大真面目にやっている、お笑いという仕事に僕らの家族は救われました。ぼくは彼らにいつか恩返しをしたいなと思ってます」と静かに笑った。

(藤井誠二、ノンフィクションライター)

きゃん・ひろゆき

 1974年、沖縄市出身。昭和薬科大学付属中学(1期)・同付属高等学校(16期)、琉球大学理学部数学科卒。大学在学中の96年、演芸集団FECに入団。98年、RBCラジオ主催「第1回ラジオCMグランプリ」大賞。99年4月(株)吉本興業養成所東京NSC入学。同期にピース、三瓶、平成ノブシコブシ、大西ライオン等。2003年、帰沖。沖縄テレビ「ひーぷー☆ホップ」、「ゆがふぅふぅ」ほかテレビ・ラジオ・舞台など多数担当。
 

 

 ふじい・せいじ 愛知県生まれ。ノンフィクションライター。愛知淑徳大学非常勤講師。主な著書に「体罰はなぜなくならないのか」(幻冬舎新書)、「『少年A』被害者の慟哭」など多数。最新刊に「沖縄アンダーグラウンド 売春街を生きた者たち」。