【寄稿】むなしい「男気」やめにしないか ファザーリングジャパン沖縄代表・新垣誠氏<国際男性デー>


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新垣 誠氏

 「パパ、ピアノ弾けるの?」娘の問い掛けに、小学生の頃を思い出した。同級生に野球へ誘われたが、ピアノ教室があると断ると、「女の子みたいだな」と失笑された。これをきっかけにピアノをやめ、野球チームに入った。野球にしろ、サッカーにしろ、戦争ごっこにしろ、男の子の遊びは「競争」だ。常に勝つことが求められる。勝つと優越感や万能感にひたれたし、強くなる気がしてうれしかった。

 高校生になるとロックバンドを始めた。親や先生が認める真面目な常識人から、「逸脱」したアウトローな生き方はカッコ良かった。すでに勉強で落ちこぼれていたのをきっかけに、反学校を決め込んだ。それは席次で戦っても「勝ち組」に入れそうもない不名誉な開き直りでもあった。

 偏差値の高い大学へ行き、公務員になるか人気企業へ就職。そんな一本しかない線路のように敷かれた人生から外れた道を、「負け」の烙印(らくいん)を押されたまま、うなだれて歩くことが嫌だった。そんな思いを胸に、アメリカへ渡った。青春を過ごしたアメリカは、暴力による競争を煽(あお)るマッチョ社会だった。筋トレにアメフト、人種間対立にギャング抗争、そして数多くの女性を性的に征服することが「強い男」の証だった。それは支配とコントロール、そして犯罪という社会からの非人間的な逸脱さえも、「男らしさ」となる社会だった。

 アメリカでも日本でも、モテる「ハイスペック」男子の本質は、その支配力とコントロール力だ。学級委員長かヤンキーのボスか。総理大臣か半グレの親分か。社会の正当路線だろうが逸脱路線だろうが、「男らしさ」の行く着く先は変わらない。競争や権力志向にとらわれない、多様な生き方を選べば、男性の人生はもっと豊かなものになるはずなのに。

 イケメンの承認欲求は、女性を制し優位であれと煽る。歴史の権力者たちが、常に多くの女性を侍(はべ)らせていたように。人として素直に女性と向き合うことができれば、もっと心が満たされる関係が持てるはずなのに。

 「仕事ができてこそ男」と言われるから、弱肉強食の世界で命を削る。他人をケアする行為を通して、もっと命に向き合えれば、自分も大切にできるはずなのに。

 2人の娘の誕生は、男らしく生きるより大事なことを教えてくれた。育児に本気で向き合うと、「父性」だの「母性」だの言っていられない。小さな命を育むためには、ありったけの人間性を持って挑んでも、まだ足りない。ましてや支配やコントロールをもって子どもを制しようとすると、それは虐待となる。自分よりも圧倒的に「小さき者」へ、力を行使することなく仕えるということは、徹底的な非暴力の実践であり、真の人間的強さが試される。

 強権政治と経済搾取が蔓延(はびこ)る地球社会。支配とコントロールによる政治経済がもたらしたものは、紛争に抑圧、人権侵害に環境破壊。そして地元沖縄社会には、深刻なドメスティック・バイオレンスと児童虐待が暗い影を落とす。

 男の絆を掲げて飲んでは「イナグ」の悪口を垂れ、崩壊した男性優位性の神話にしがみつき、性差別を正当化することはそろそろ辞めにしないか。支配とコントロールで女性に向き合い、性暴力を「男らしさ」と勘違いするのは辞めようじゃないか。この沖縄は、立場の弱いものに対するイジメを、強さの証とする島ではないはずだ。もうそんなむなしい男気(おとこぎ)は辞めにしないか。カビ臭いプライドは捨てて、もっと人間らしく、強く、やさしく、しなやかに生きようではないか。
 (ジェンダー論)


 あらかき・まこと 1966年那覇市出身。沖縄キリスト教学院大学教授。ファザーリング・ジャパン沖縄代表。県内の多くの自治体で男女共同参画委員を務める。