「競泳王国」復権へ英才教育 沖縄からただ一人招集された少女 14歳で日本選手権2冠 競泳背泳ぎ我部貴美子(上)<沖縄五輪秘話17>


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現役時代を懐かしそうに振り返る榎本(旧姓・我部)貴美子。60代に入っても泳ぎ続けた。賞状やメダルはマスターズ大会で獲得したもの=2日、東京都八王子市の自宅

 戦前は「競泳王国」として世界を席巻したが、1964年の東京五輪ではメダルが男子の銅一つのみという屈辱を味わった日本競泳界。翌65年春、不振を脱却しようと、国内での先駆けとなるスイミングスクールが大阪府で立ち上がった。女子水泳部を抱えていた製薬会社「ロート製薬」創業者の山田輝郎が多額の私財を投じて本社敷地内に創設した「山田スイミングクラブ」だ。「オリンピックでのメダル獲得」を合言葉に全国から有望な学生を集め、選手強化に腐心した。 (長嶺真輝)

 英才教育の場に沖縄からただ一人招集されたのが、当時那覇市立上山中1年だった女子背泳ぎの我部(現・榎本)貴美子(69)=東京都在住=だ。加入後、国内トップ選手へと一気に駆け上がり、68年の第19回五輪メキシコ大会では背泳ぎ代表の最有力候補に挙げられた。沖縄の日本復帰前、五輪の舞台に最も近づいた県勢の一人だ。

■全中で頭角

 沖縄出身の父・惟紹と大阪出身の母・貴代子の次女として51年、福岡県門司で生まれた。小学3年の時、父が親戚から家屋を相続することになり、那覇市辻に移り住む。友達が水泳をしていて「自分もやりたい」と若狭小4年時に競技を始めた。父は戦前に沖縄師範学校で水泳を指導していた経歴があり、練習にはしっかり取り組むよう諭されたという。

 満潮時に海水がたまる波之上プールなどで練習する日々。初めは泳ぎを純粋に楽しんでいたが、小さな体に大きな才能を秘めていた。「小さい頃から体の関節が柔らかかった」と深く水をかく泳ぎで記録を伸ばし、背泳ぎに専念し始めた上山中1年時の64年には、全国中学校競技大会の200メートルで6位入賞を果たす。この時の泳ぎが山田スイミングクラブの監督を務めることになる金田平八郎の目に留まる。後にクラブへの誘いを受けた。

日本選手権の競泳女子背泳ぎ100メートルで初優勝を飾り、表彰を受ける我部貴美子(中央)。2位の田中聡子(左)、3位の合志幸子と=1966年8月30日、東京の代々木オリンピックプール

 クラブ加入は父が決めた。自らの意思ではなかったが「親から離れられる」という軽い気持ちで1年の3学期から単身大阪に移住。クラブの寮に入った。競泳ニッポン再興を掲げた山田の肝いりで整備された施設は屋外の50メートル、屋内には二つの25メートルプールが豊富な水をたたえていた。当時国内では数少ない温水。全国から才能あふれる小中高生が集まり、日々競い合うトップ選手の養成施設だった。

 金田監督は25メートルを間隔を空けて繰り返し泳ぎ、スピードや持久力をつけるインターバルトレーニングを取り入れるなど、先進的な練習を行っていた。泳ぐのは好きだが、元々天才肌で練習嫌いな我部にこの指導法がフィットする。「短い距離を泳ぐのが好きだったから、自分に合っていた」。まさに水を得た魚のごとく、めきめきと力を伸ばしていく。この年の65年8月に行われた全中では背泳ぎ100メートル、200メートルを早速制覇し、頭角を現した。

■メダリストに勝利

 66年1月1日付の琉球新報新年号に載った「メキシコへの郷里のホープ」と題した我部の特集記事に、金田監督のコメントがある。

 「上下動が多く、左右のストロークのバランスが取れていないことと、体がやや猫背で腰が安定しないが、入部してから随分矯正した。順調に育ってくれれば、日本の水泳界を代表する選手になれる」。将来性を見込み、こうも続けた。「今年の日本選手権で活躍することははっきりしている。(五輪出場は)我部は必ずやってくれる」

1966年の第5回アジア大会で我部が獲得した金メダル(右)と銀メダル

 中学3年で迎えた同年8月の日本選手権。第2日の背泳ぎ200メートルで頂点に立つと、最終日の100メートル決勝でヤマ場が訪れる。前年までの8年間で7度の優勝を飾り、60年ローマ五輪では100メートルで銅を獲得した背泳のベテラン田中聡子との直接対決となった。

 4コースに我部、3コースに田中が付く。レースは隣り合う2人が飛び出す展開となったが、我部が徐々に引き離していった。最後は田中に1秒差で、中学レコードとなる1分10秒0で日本選手権2冠を達成した。当時まだ14歳。ゴールの壁をタッチすると、初々しい表情でにっこり笑った。「まだ子ども。プレッシャーもなかった」という。

 2種目を制して同年12月のアジア大会日本代表に選ばれると、400メートルメドレーリレーで金、背泳ぎ100メートルで銀を獲得した。国内トップ、そして国際大会の舞台へと一足飛びで駆け上がった我部。スイマーとして順風満帆に見えたが、周囲の期待感の高まりや競争環境の激化に、まだ成熟途中の心が悲鳴を上げ始めていた。「日本選手権で優勝してからは、泳ぐのが嫌になった」。メキシコ五輪の開幕は2年後に迫っていた。

 (敬称略)