皇室と40年近い交流、復帰前の上京で苦労… 琉舞・重文保持者の志田房子さん 芸歴80年を語る(下)


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創作舞踊「歌声の響」を踊る志田房子(神田佳明撮影/横浜能楽堂提供)

 【東京】芸歴80周年を迎えた琉球舞踊重踊流の志田房子初代宗家。志田は国指定重要無形文化財「琉球舞踊」保持者(総合認定)でもある。インタビュー後編は、上京して以降の苦労や皇室とゆかりを持つことへの思いなどを聞いた。 (聞き手 知念征尚)

 ―結婚後、1968年に東京に引っ越した。沖縄への理解もない時代、苦労も多かったのでは。

 「家の向かいに、子ども3人を通わせた幼稚園がある。東京に来たばかりの時にあいさつしたら『あの人、日本語が上手ね』という声が聞こえた。『ぬーがやー』(何でだろう)と思った。子育てもあるし、ヤマトの学校は大変だとも聞いていたので、踊りはやめようと思っていた。だが、その言葉を聞いた時に、この人たちは沖縄のことを何も知らないなと思った。長男の卒園式で『沖縄の踊りをやりますので、踊らせてください』と買って出た。本物の紅型を着て、化粧もちゃんとこしらえて。それを見せたらすごいショックを受けたみたい。戦争で沖縄は全滅したと報道され、載っている写真もきれいな身なりをしていなかった。私たちが持つ文化は伝わっていなかった。だから私は学校行事のたびに買って出て、白や赤の足袋を履いて踊った。それが私の沖縄文化紹介の始まりだ。だからもうやめられなくなった。私は東京における、沖縄文化の窓口だと思っている」

 ―昨年、東京の国立劇場で開いた公演は上皇ご夫妻が観覧された。秋篠宮妃紀子さまに舞踊を教えている。皇室とゆかりを持つことへの思いは。

 「妃殿下とは皇室に入る前、まだ学習院の学生だった頃に、琉球舞踊を習いたいと電話をもらったのが始まりだ。国際交流で出し物を披露する必要があり、琉舞を選ばれた。いとしい人に貫花という花を差し上げるという内容の(雑踊りの)『貫花』を教えた。ハワイのレイのような花や四つ竹を持って踊るので華やかに見え、どこの国の人にも分かる踊りだ。弟子入りしてからは、みんなから紀子ちゃんと呼ばれて親しまれた」

 「しばらくすると、皇太子殿下の弟と川嶋紀子さん(紀子さまの旧名)が結婚するというニュースが流れた。まさか、と思いながら自宅に電話したら本人は留守だった。遅い時間に折り返しの電話があって『本当なんですか』と尋ねたら『やっと貫花を差し上げる方が決まりました』とおっしゃった。確かに、踊りを教える時にお話ししましたが、そこまで考えてお勉強していたんだなと思うと驚いた」

 「上皇ご夫妻とのつながりは、もっと古い。もともと琉歌を勉強なさっていた。志田房子の踊りを見たい、という申し入れがあって、まだ皇太子殿下の頃、東宮御所で踊ったのが始まりだ。その後、『今帰仁の桜』と『歌声の響(ひびき)』という琉歌をお詠みになった。『歌声の響』は上皇后美智子さまが作曲されたが、私がアレンジしたものを東宮御所でお披露目したら、今度はこの歌を「立体化できないかしら」と尋ねられた。お相手がお相手なだけに最初はためらいもあったが、その日のうちに『振り付けてみます』とお返事した。それが1982年なので、40年近い交流がある。沖縄に心を寄せてくださる温かい気持ちがとてもうれしい。ずっと踊り続けたい」

 ―来月4日の沖縄公演への意気込みは。

 「昨年、旧暦9月9日に東京の国立劇場で公演をした。今回の沖縄公演も当初は旧暦で同じ日の10月25日に予定していたが、新型コロナウイルス感染症の影響で延期した。重陽の節句に当たり、首里城内で琉球舞踊が踊られた記録がある。いま私たちが琉舞を踊れるのは往時の宮廷舞踊が受け継がれてきたからだ。この日を大事にしたい」

 「今回は楽しい踊りをそろえた。踊るたびに、来場した皆さんから頂く拍手を、コロナ禍で頑張っている医療従事者にささげたい」