沖縄初の五輪出場、教え子・新垣吉光とミュンヘンに ボクシング幸喜良正(下)<沖縄五輪秘話20>


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日本代表の調査員としてミュンヘン五輪の開催地を訪れ、大会旗を背に記念撮影する幸喜良正=1972年8月、西ドイツミュンヘン(本人提供)

 のちに五輪代表となる新垣吉光は1950年生まれ。幼いころから体が弱く、66年に沖縄高に入ると「鍛えたい」との一心でボクシング部に入部した。身長150センチ台半ばという小柄な新入生に対し、赴任4年目に入った幸喜良正(80)が徹底したのは「お前の体だと拳では勝てない。3発よけて、1発当てろ」という守り重視の指導だった。

 幸喜が「抜群だった」とうなった反射神経の持ち主の新垣は軽快なフットワークでパンチをかわし、加えて「人の5倍あった」という根性に勝負度胸も兼ね備えていた。師の教えをベースに「1発打たれたら2発返していた」という負けん気たっぷりのスタイルで、2年時から2年連続で全国総体モスキート級準優勝を果たした。「こいつならオリンピックに行ける」。直感した幸喜は母校日大に連絡を取り、恩師の川島五郎監督に「そのつもりで育ててください」と直訴。69年春、日大に進学を決めた新垣も「絶対に出る」とスポーツの祭典への決意を幸喜に語っていたという。

■涙の代表報告

ミュンヘン五輪ライトフライ級1回戦 ブルガリア選手と激しく拳を交わす新垣吉光=1972年8月28日、西ドイツのボクシング・ホール(沖縄県体育協会史より)

 入学後、さらに技術に磨きを掛けた新垣は2年時に全日本アマチュア選手権ライトフライ級で初の頂点に立つ。翌年も制し、3連覇の懸かる72年6月の同大会は8月のミュンヘン五輪の代表選考を兼ねていた。4年生の日大主将として臨み、圧倒的な強さで勝ち進んでいく。決勝も第1ラウンドから左右の鋭いフックでダウンを奪い、完勝。6月10日の決勝終了後に開かれた選考委員会で晴れて五輪代表に決定した。

 その5日前に五輪出場を決めていた陸上男子三段跳びの具志堅興清と並び、沖縄初のオリンピアンの誕生だった。川島監督から「最終予選はワンサイドで勝ったよ」と電話で吉報を受けた幸喜は居ても立ってもいられず、翌日すぐに東京行きの便に飛び乗った。

 空港に着くと、東京・目黒の日大練習場へ急いだ。自身も青春の4年間を過ごした懐かしい場所。足を踏み入れると、サンドバッグや縄跳びの音を絶え間なく響かせている練習を川島監督が遮った。「練習やめっ。沖縄から大先輩が来てるぞ」。静まり返る学生たち。ふと新垣と目が合う。駆け寄ってきて言った。「先生、オリンピックに行けるよ」。引き締まった表情を崩し、子どものように涙をこぼす新垣。「良かったなあ。俺までオリンピックに行けたようなもんだ」と抱き合い、歓喜を分かち合った。2人が出会ってから7年目。師弟の夢は現実となった。

■現地で声援

ボクシング関係者で集合写真に納まる幸喜良正(前列中央)と晩年の新垣吉光(後列左から3人目)ら =撮影年不明(新垣克彦さん提供)

 朗報が続く。幸喜が日大在学中に監督を務めていた柴田勝治が日本オリンピック委員会(JOC)の仕事に関わっていたことから、柴田の便宜で調査員としてミュンヘンへの同行が許可された。迎えた72年8月28日、新垣の初戦。試合前、短い言葉で激励した。「今までやってきたことを全力で出してこい」。眼光鋭く、表情は引き締まり、155センチの体から闘志があふれていた。目指すはメダル獲得。胸に日の丸の青いユニホームを身に付け、新垣はついに世界最高峰のリングに上がった。

 1回戦のゴング直後、リーチの長い大柄なブルガリア選手の動きを慎重に見極める。右回りにステップを踏みながら時折パンチをかいくぐり、左フックを浴びせる。第2ラウンドの20秒すぎには連打でロープ際に追い詰める場面も。手に汗握る展開に、スタンドの幸喜も繰り返し「頑張れ!」と叫んだ。

 後半戦に入っても攻勢を続けるが、負けじと相手も的確なパンチを愚直に繰り出してくる。最終第3ラウンド終了のゴングと同時に幸喜は確信した。「今までやってきたいいボクシングだ。勝った」。しかし、主審が挙げたのは相手の腕だった。肩を落とす新垣。「勝ったような試合だったけどなあ」。幸喜は高揚感と残念な気持ちが入り交じった思いでねぎらった。日本復帰から3カ月。日の丸を背負って堂々と戦った教え子が誇らしかった。

 その後、高体連の専門委員長や県ボクシング連盟会長などを歴任し、沖縄の競技発展に尽力した幸喜。新垣も大学卒業後は帰郷し、審判の道を歩んだ。しかし2002年3月、肝臓と腎臓の病を患い、新垣は51歳で他界した。それから18年。「吉光がいたら連盟の役員をやってほしかった。逝くのが早過ぎる」と寂しさが消えることはない。

 ドイツから持ち帰ったミュンヘン大会旗を横目に幸喜は生き生きとした表情で当時を振り返った。「吉光が沖縄初のオリンピアンになって、自分も五輪に行けた。夢のようなことが、全部現実になった」。世界最高峰の舞台でまばゆい輝きを放ったまな弟子のたくましい姿は、今も鮮明に脳裏に焼き付いている。 

 (敬称略)
(長嶺真輝)