楽園を出てうたを求めて 揺れ動く島の千鳥 鳩間可奈子<新・島唄を歩く>


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舞台で歌三線を披露する鳩間可奈子=2005年((C).KUNISHI)

 1999年、知名定男は八重山.鳩間島から一人の少女をプロデュースした。小さな身体全体が楽器のように響く澄んだ歌声に、民謡ファンはたちまち魅了された。鳩間可奈子である。その年の10月、琉球フェスティバル(京セラドーム大阪)に初出場した際には、アンコールが鳴り止まなかったという。90年代、沖縄島うたは第三期黄金期を迎えていた。彼女の出現は21世紀に向かう沖縄音楽の更なる飛躍を予見させた。

 

鳩の巣のような島

小浜 鳩間島出身?

鳩間 いえ、石垣生まれ、石垣育ち。父が鳩間島出身で母は与那国です。中学校の3年間を鳩間島で過ごしました。

 鳩間島は西表島の北5.4キロに位置し、面積は0.96平方メートルの「まるで鳩の浮巣のような隆起珊瑚の島◆である」(喜舎場永〓著「八重山民謡誌」)。このような小さな島に12もの浜の名称があり、それらの浜から飛び遊ぶ千鳥を歌った民謡「千鳥節」や、舞踊曲としても知られる「鳩間節」は琉球民謡の中でも最も有名な節のひとつであることはいうまでもない。

小浜 生徒は何人?

鳩間 小中合わせて7人。

小浜 その3年間は、伸び伸びと?

鳩間 むちゃくちゃ楽しかった。楽園でした。天国。あの経験のおかげで今は何があっても頑張れるというかな。

 

知名定男との出会い

 鳩間可奈子は祖母の住む鳩間島に幼い頃から、兄や従妹と行ったり来たりしていた。中学に上がるとき、島の校長先生が可奈子の父親と相談して、竹富町立鳩間小中学校へ転入が決まった。

 小学3年生の頃より母の後について古典民謡研究所に通っていた可奈子が、鳩間島に来てからは、島のおじさんたちと歌仲間になったというから、天性の歌姫としての才能は既に芽生えていたといえる。

小浜 知名定男さんが訪ねてきたのは?

鳩間 中学卒業の3日前。テレビの撮影があるからって島が盛り上がったんですよ。一番はしゃいだのはおばあちゃん。区長の加地工勇さんが「可奈子来い」と、連れて行かれた所でテレビ局の人が「こちらが有名な知名定男さんです」。全然知らなかった。

 壁にもたれ足を伸ばして歌を聴いている知名の態度に「いくら偉い人でも私の島では関係ない」と、勇おじさんの方を向いて歌った。歌っている間に徐々に起き上がった知名が座り直して聴きながら笑ったのを見て「良かった」と可奈子は思った。そしてテレビ番組「定男とうたまーい」にて飛び入りで歌うことになった。

小浜 CDがリリースされたのは?

鳩間 高校1年生の時。今度は沖縄のスタジオに来て歌わないかということで。そしたら新曲「千鳥」が出来上がってて、そのカラオケの打ち込み作業を手伝いさせてもらって、それからレコーディングと、そんな音楽制作の工程がものすごく楽しかった。

小浜 CDが出ると環境も変化するでしょう。

鳩間 「千鳥」(1999年OTV)がお米のCMに使われたり、天気予報で流れたりで、周りの反響は良かったのですけど、人前で歌うためにはちゃんとしなきゃいけないと私自身ずうっと揺れ動いていて、一度音楽活動から離れようと思って東京の大学へ行きました。

 

民謡への思いなどを語る鳩間可奈子=10月、那覇市((C).KUNISHI)

迷いの日々を

 しかし、可奈子の迷いは消えなかった。大学に通いながらも、琉球フェスティバルや、ライブに出演したりと、学業と職業歌手との間を揺れ動き、結局何も決めきれずに大学を卒業してしまった、と自らの中途半端さを嘆いた。

 一念発起して、もう一度音楽と向き合いたい、と沖縄に帰って来て、知名定男やネーネーズの所属するディグ音楽プロモーションに就職。事務員として働きながら仕事が入れば歌った。歌を歌うのは大好きなのだけど、人前で歌う自信がなかった、と可奈子は当時を振り返る。

小浜 またヤマトへ?

鳩間 知名先生に「はっきりしなさい」と言われ、「やめます」と言って前に住んでいた横浜に。アルバイトしながらラジオのパーソナリティーや、大島保克さんの相方をつとめたりと、とにかく音楽にはずっと関わっていたんです。

小浜 それから沖縄へ帰って来た?

鳩間 4年前。ギタリストの夫(鈴木俊介)と一緒に、三線とギターを広めたいと、レッスンカフェ「あおばと」を那覇市にオープンした。三線教えている内に、何となく歌う自分が戻って来て、本来の自分を取り戻せて、歌っている方がいいのかな、と意欲が出て来たのがつい去年なんです。 

「どんな形で歌って行くのか模索中です」と可奈子は陽気に跳ねるように笑った。

※注:◆は止の右に「支」
※注:〓は王ヘンに「旬」

(小浜司・島唄解説人)


心突き刺す「きむっつぁ」

 太陽(てぃだ)ぬ子(ふぁ) 作詞作曲.知名定男

一、島(しま)ぬ御主前(うしゅまい)やヨーホイ 久葉(くば)ぬ下(しちゃ)なかい

  神(かん)ぬ子揃(ふぁす)らち 昔物語(むかしむぬがたい)

  島(しま)ぬ行事習(くとぅなら)ー さば そういり

  ようや童(わらび)

  でぃぐぬ木(き)ぬ如(ぐとぅ)に 肝持つぁ

  太陽(てぃだ)ぬ子(ふぁー)

二、島(しま)ぬアッパーやヨーホイ 神(かみ)に願(がん)掛(か)きてぃ

  ウートートゥアートートゥ     世果報給(ゆがふたぼ)られ

  思(う)み情掛(なさきか)きら 御世(みゆ)ぬ栄作りよ

  でぃぐぬ木ぬ如に 肝持つぁ

  太陽ぬ子

三、海(うみ)に山(やま)にヨーホイ たわむりる童(わらび)

  美(ちゅ)ら花咲(はなさ)かす 大人(うふっちゅ)なりよ

  手墨学問(てぃしみがくもん)すぐリリよ 天(てぃん)ぬ高(たか)さ

  までぃん

  でぃぐぬ木ぬ如に 肝持つぁ

  太陽ぬ子

  でぃぐぬ木ぬ如に 肝持つぁ

  太陽ぬ子

  肝持つぁ太陽ぬ子

 

~~肝誇(ちむぶく)いうた~~

 鳩間可奈子が鳩間島の思いを伝える大好きな歌が「太陽ぬ子」だという。彼女自身今のところ最後のアルバムとなっている「太陽ぬ子」(2008年、ディグレコード)に収録されタイトル名となった曲。師匠の知名定男がCDを作るに当たって島を訪れ、可奈子の祖母や島の人々の話を聞いて作品にしたものだという。「太陽ぬ子」とは、ここでは鳩間島の子供たちを指す。島がどれほど子供たちを大事にし、島にとっての子供たちは、太陽(天)からの授かりものに等しいめぐみである、と表現しているといえようか。

 鳩間島には「きむっつぁ」という言葉がある。可奈子は言う、鳩間島特有の表現で、通常「かわいそう、哀れ」という意味で使うが、久しぶりに会った子などへの愛しさを込める時にも使うという。「可奈ちゃん、帰って来たー、肝持つぁ」という具合に。筆者は「愛おしい程不憫だ」と歌う黒島民謡の「チィンダラ節」を思い出してしまう。いずれにしても心を突き刺す言葉である。