米軍機窓落下3年 宜野湾市の普天間第二小で集い 平和と命考える


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米軍機の窓落下から3年を前に、普天間第二小学校で開かれる「12・13を考える日」=11日午前8時42分、宜野湾市新城の同小

 【宜野湾】米軍普天間飛行場に隣接する宜野湾市新城の市立普天間第二小学校(知念克治校長、623人)で2017年12月13日に発生した米軍ヘリ窓落下事故から3年を迎えるのを前に、同小で11日、事故を忘れず平和や命について考える集いがあった。事故後、米軍機が飛ぶたびに避難する児童の様子や日常的に騒音に悩まされる現状の動画を流した。動画では「子どもたちの教育を受ける権利が恒常的に侵害されている」と指摘した。

 集いは新型コロナウイルス感染防止の観点から、体育館で2学年ごとに開いた。窓が落下する映像を見た1、2年生は、知念校長から「怖かったと思う人?」と問われ、ほぼ全員が手を上げた。教室で集いの感想を書いている最中もヘリが飛び、耳をふさぐ児童もいた。

 集いの動画では「事故を思い出したくない。自分も半分アメリカ人だから『自分も悪いのかな』と思う」と心を痛めていた児童の声も紹介され、互いの気持ちを思いやった。

 知念校長は、児童の危機回避能力を高めるため「(1)音聞いて(2)止まって(3)目視(4)怖いと思ったら逃げましょう」と呼び掛けた。1、2年生の集い終了後、知念校長は同校の状況について報道陣に「普通ではないことを知ってほしい」と話した。校長室の前には「安心して学校生活が送れますように」などと書かれた職員のメッセージも掲げられた。

児童らに危険回避能力を高めるよう呼び掛ける知念克治校長

事故映像見るたび涙 知念克治校長

 普天間第二小学校の知念克治(かつじ)校長(58)は、嘉手納村(当時)で生まれ、52年前に嘉手納基地でB52戦略爆撃機が墜落した事故に遭遇した。基地の危険性や騒音を長年、肌で感じている。

 1968年11月19日未明、嘉手納基地でB52が離陸に失敗し墜落、搭載した爆弾が爆発した。基地のフェンス近くに住んでいた知念さんは屋良小1年生。事故直後は覚えていないが、学校に行くと新築の幼稚園の窓ガラスが全て割れていたことを記憶している。

 父が「ここにいたら命がいくつあっても足りない」と翌年、家族10人で具志川市(当時)に引っ越した。2年後の71年、知花弾薬庫から毒ガスが移送され自宅周辺を通り、台所から「毒」の赤い文字を見た。父は「沖縄はどこに住んでも一緒」と話していた。

 今年4月に普天間第二小に赴任した知念校長。開校から51年間、歴代校長が隣接する普天間飛行場に負わされてきた苦悩を改めて感じている。事故映像を見るたび「涙が出てくる」と言う。児童の教育環境を守る立場として「一番は基地がなくなることだが、一校長の力だけではできない」と苦しい胸の内を吐露した。