玉城知事、11歳で見たコザ騒動「虐げるものへの怒り」「沖縄の不条理変わらず」


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幼い頃に見たコザ騒動の印象について語る玉城デニー知事=15日、県庁(ジャン松元撮影)

 1970年12月20日未明、米軍人が起こした交通事故と米憲兵隊の事故処理に憤慨し、コザ市(現沖縄市)で民衆が車両を焼き払うコザ騒動が発生した。当時、現場近くに住んでいた県知事の玉城デニーさん(61)は、路上でひっくり返り、焼け焦げになった車を目の当たりにした。それから半世紀。玉城さんは「沖縄の中の不条理はあの頃と変わっていない」と語り、コザ騒動を「われわれを虐げるものに対する、ため込んでいた怒りが表に現れた出来事」と振り返る。

 当時小学5年生だった玉城さんは、ビジネスセンター通り(現在の中央パークアベニュー)から北へ100メートルほど入った場所に母親と2人で暮らしていた。騒動前日の19日夜から20日未明にかけ、自宅にいると人が走って行く音や大声で騒ぐ声が聞こえた。「尋常ではない、物々しい雰囲気」に包まれた。

 「何が起こっているんだ」―。20日午前7時ごろ、友人と3人で街へ出た。胡屋十字路の歩道橋上から、諸見の方向に目を向けると、道路の真ん中で車がひっくり返され、真っ黒になっていた。煙が立つ車もあり、オイルやゴムの焼ける臭いが辺りに充満した。多くの見物人が集まったが、誰一人騒ぐことはなかった。「みんな静かに様子を見ていて、異様な雰囲気だった。モノトーンな風景を見ているようで戦争が起こったのか、と強烈な印象だった」

 日米両政府に衝撃を与えたコザ騒動。玉城さんは「鬱積(うっせき)された状況の中、県民は突発的な行動に駆り出された。『沖縄を抑えつけ高笑いしているのは誰なんだ』という心情を吐露するだけでは終わらず、車を焼くことで表現した行動だった」と考えている。

 玉城さんは「復帰によって県民の施政権が日本に返還され憲法の恩恵は享受されるようになった」とする一方で、少女乱暴事件や教科書検定問題などを挙げ「県民は『われわれを踏みにじるものは許さない』と(騒動から50年がたつ)この間も、平和裏に非暴力的に示してきた」と語る。

 コザ騒動から50年の時間が経過する現在、「日米地位協定は1行も変わらず、不条理は整理されないままだ。書き換えられないのは一体誰の責任か。戦後取り残された大きな矛盾だ」と強調した。