<不条理への抵抗・コザ騒動50年>「ウチナー蜂起の日」あの日、通るべき道だった…佐渡山豊


この記事を書いた人 Avatar photo 嶋野 雅明

 1970年12月20日のコザ騒動から50年を迎える。米統治下では米兵が事件・事故を起こしても正当に裁かれない例が恒常化し、人権を踏みにじられ続け、ウチナーンチュの怒りの蓄積が爆発した。今も日米地位協定に基づく不平等な状況や過重な基地負担が続く沖縄。半世紀前のコザ騒動は現在や今後の沖縄にどうつながるのか。体験者や識者の談話や寄稿を紹介する。

 

 1970年12月20日未明のコザ市(現沖縄市)中の町。仲間たちとのたまり場となっていた家で寝ていた私のところへ突然、近くに住む友達が駆け付け「えー、豊。でーじ(大変だ)。革命になるかもしれない」と起こされた。20歳で琉球大学の学生だった私は前夜に仲間たちと酒を飲み、午前0時ごろに眠りに就いていた。「ちゃーなとーん(どうなっている)」と友達と急いで騒ぎの現場へ向かった。

  暴動か騒動か

  今のサンエー中の町タウン辺りの現場に着くと、たくさんの人だかりができていて、集団で車をひっくり返していた。近くの飲み屋で働くお姉さんたちが状況を説明してくれた。米兵が運転する車が交通事故を起こし、ウチナーンチュがけがをしたという。同年9月に糸満町(現糸満市)で米兵が主婦をひき殺した事件で、加害者の米兵が無罪判決となったことを挙げ「この前の糸満の事件と同じように無罪になるのでは」と話していた。周りの人たちも「そうだな。また同じことになる」と言った。
  米兵の車が来たら、ウチナーンチュの集団はドアを開けるように求めた。ドアを開けない場合は集団で車を揺らし、米兵を降ろして車をひっくり返していた。人にはけがをさせないで、車だけひっくり返すことが暗黙のうちに決まり始めていた。だから略奪は起きなかったのだと思う。

  友達と相談し「これは素通りできない」「最後までいないといけないな」と確認した。見届けないといけないという思いがあった。そのうちに車をひっくり返している人たちに呼ばれ、友達が先に加わり、私も車をひっくり返した。日米の協定で決めた悪いシステムが不条理な状況を起こしていることは分かっていた。それを表現しないといけないという思いだった。

  「コザ暴動」か「コザ騒動」かという議論が50年続いている。いつまでも問い掛けることになるだろう。私は「ウチナー蜂起の日」と言えば分かりやすいと思う。蜂起している、立ち上がっているということだ。通るべき道だったと思う。あの日がないと、次のステップが踏めない状態まで鬱積(うっせき)していた。

佐渡山豊さん

 コザで生まれ育つ

 私はコザで生まれ育ち、米国のフェンスがすぐ近くにあった。子どもの頃は、フェンスの向こうの米兵たちが悪い人には見えず、親しみを持っていた。ただ、中学生ぐらいになると米軍による事件・事故のことが分かってきた。1965年には米軍のパラシュート降下訓練で投下されたトレーラーで小学5年生の女の子が押しつぶされ、死亡した事故も発生した。事件・事故が次々に起き、加害者の米兵は正当に裁かれずに理不尽な状況があった。

 米軍雇用員の大量解雇などもあり、理不尽なやり方がどんどんはびこってくる。米国が主人で、日本政府は口出しできない主従関係。その下にウチナーンチュがいる。雇用形態も理不尽極まりないと感じた。

 私が後に出した 曲「ドゥチュイムニィ」を書き始めたのはその頃だ。高校生の頃からつけている日記にあった文章に音を乗せた。主に母親との日常会話から気になった哲学などを書きしたためた。音楽に目覚めたのは中学2年。兄が米軍払い下げの質屋で買ってきたギターを私が弾き始めた。子どもの頃から近くにあるバーのジュークボックスから流れる音楽を聞いていた。それと同じ音を奏でることができるギターが好きになった。ギターを抱いて寝るほど練習し、兄が「もうお前にあげる」と言ってくれた。これが音楽の道へ進むきっかけだった。

 私は「コザ暴動」をイメージした歌「焼討ち通りのバラード」を作った。1974年、東京に出て間のない頃だ。しかし、これは放送禁止にされた。「焼討ち通り」という曲名自体がよくないことも指摘された。「非常口を忘れたまんまの核付きジェット機」「ボクのこの命までは君にや奪えないはず」などの歌詞がある。

 今になると、自分の立ち位置があの日(「コザ暴動」の日)に決まっていたような気がする。目撃者であり、中にいたわけだから自分の責任として、これを風化させてはいけないというように。中にいた者だから言える、歌えることだ。

 私は沖縄のことを意図的に表現しようと考えたことはない。沖縄のことが自然に出てくる。そこは大事だ。「佐渡山さんの歌はなぜ沖縄のことが多いのか」と聞かれたりもする。「佐渡山から沖縄を取ったら存在理由はない」という評論家もいた。

米兵らの車が次々にひっくり返されたコザ騒動の現場に集まる人々=1970年12月20日(©K.KUNISHI)

ゆでガエル

 音楽活動を休止した約20年の間に、中学校の頃から好きな建築の勉強をした。1級建築士の免許を取得し、沖縄で米軍基地内の建築の仕事をした。これまで外から見ていた米軍のシステムを金網の中から見てみようと思った。

 基地の中で働くことで憎むべきものは基地の中の人間ではなく、構造的な差別を生むシステムだと分かった。日米の協定がペーパー1枚で変わる。基地内でも差別はある。黒人は昇進できず、管理する人々は白人で占めていた。

 音楽活動を再開したきっかけは、1995年、菊之露酒造のテレビCMの出演オファーが来たことだ。当時、米兵による少女乱暴事件が発生し、抗議のための県民大会にも参加した。もう1回、蜂起する時だとも思っていた。この歌が「要求に応えることもがお前の務めだろう」と私に言っていると感じた。

 50年前と比べ、今の沖縄は希望的観測として、この状況ならまだ良いだろうと感じる。しかし、楽観できない。記憶が風化していく中で現状に慣れてしまうあしき連鎖を絶たないといけない。

 「ゆでガエル」という法則がある。カエルを冷水から熱湯へ入れると、すぐ逃げる。しかし、冷水をじわじわゆっくり温めると、カエルは気が付かないまま水温が上がり、死んでしまう。このゆでガエルになってはいけない。同じように、沖縄の理不尽に慣れてしまってはいけない。熱い湯になっているのに「そのままでいいや」となってしまうことが一番、心配だ。

 だんだん記憶が薄れていく状況を打破していかないといけない。「コザ暴動」から50年を機に、記憶を取り戻そうといういろんな催しがある。私も「コザ暴動」から50年を迎えようとする19日夜、ライブを開催する。今後もギターを弾き、歌っていく。 (談)

 さどやま・ゆたか 1950年、コザ市(現・沖縄市)生まれ。フォーク歌手。上京して1973年に「ドゥチュイムニィ」を発表。78年から音楽活動を休止した。96年に「ドゥチュイムニィ」が菊之露酒造のCMに起用されて話題となり、97年にアルバム「さよならおきなわ」を発売し、完全復活した。今年10月、最新アルバムは「やっとみつけたよ」を発売した。