<不条理への抵抗・コザ騒動50年>世代超えたカタルシス 基地問題解決へ世論喚起を…高嶺朝一


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 コザ反米騒動が半世紀たった現在も語られるのは、その時、現場にいた人たちだけでなく、世代と場所を超えて、人々に精神的な浄化作用(カタルシス)を及ぼしているからであろう。しかし、その後も軍事基地がらみの不幸な事件は続いている。復帰後は日本政府が衝撃吸収材になって沖縄の声はワシントンに届かない。人々の心にたまった澱(おり)は層をなしている。即効性のある方法は見つからないが、歴史の試練をへて沖縄には民主的な手続きと経験の蓄積はあるので、非暴力主義に徹して、基地問題の解決に向けて県内、国内外の世論を喚起していくしかないだろう。

コザ騒動でひっくり返された米兵らの車両=1970年12月20日(©K.KUNISHI)

 住民感情に無理解

 当時、米軍は沖縄に異動してきた兵士たちに「沖縄の人々は『守礼の民』といわれ、米軍に対して好意的で、不満があってもストライキをする程度である」と教えていた。しかし、あの日の民衆は、政治権力に従順な守礼の民という呪縛を自ら解き放った。
 騒動の前、米兵の交通事故現場で、住民がMP(米憲兵)を取り囲み、石やコーラビンを投げつけるのを何度か見た。そのうち暴発するのではないか、と思った。

 大山朝常コザ市長(当時)は「暴動が起こるのではないかという予感は日々の行政をやっていてあった。風俗営業のバーテンダーなんかが米兵連中を懲らしめていた。やむにやまれない気持ちはみんな持っていて所々小さな爆発があった。私は糸満の轢殺(れきさつ)事件、国場少年轢殺事件で沖縄の人がおさまらないのではないかと思っていた。沖縄全体が政治的な火山列島のようなものだった。それが基地の街という一番地殻の弱いコザで爆発した」と語っていた。

 毒ガス移送作戦の責任者で陸軍のナンバー2のジョン・J・ヘイズ少将は「ベトナムでそんな事態が起こるというのは本などを読んで知っていたかもしれないが、沖縄で戦闘に従事しなければならないなんて思いもつかなかったので、みんなびっくりしていた」と後に証言している。米軍当局は住民感情を理解していなかった。知ろうともしていなかった。

 コザの夜間人口は、昼間の倍くらいだった。周辺の市町村から中の町などの社交街に利用客と従業員がやってくる。クリスマスと忘年会のシーズンだった。昼間は「毒ガス即時完全撤去を要求する県民大会」が近くで開かれ、那覇など各地から労組や民主団体の人たちが集まり、大会終了後、中の町に流れた。長期にわたる米軍統治に対する鬱積(うっせき)した感情に加え、みんな酒が入っていたので多少、羽目を外したところがあったかもしれない。焼き打ちにあったのは米軍関係者の車と建物の一部で、米兵に生命にかかわるような負傷者はいなかった。抑制的で統制されたかのような暴動だった。警察は毒ガス撤去集会の構成団体に指揮扇動したのがいるとみて、騒乱罪適用に向けて捜査したが、結果的に首謀者も謀議の事実もつかめなかった。それで「首なし騒乱罪」と言われた。主役は政党、民主団体の幹部ではなく、群衆だった。

高嶺朝一さん

 法治国家だから

 ジェームス・B・ランパート高等弁務官は特別声明を発表、軍事裁判で海軍兵が無罪になったことに一部起因していると聞いているが、こういうやり方は「ザ・ロー・オブ・ザ・ジャングル(ジャングルのおきて、弱肉強食)だ」と反米騒動を批判した。辺野古の土砂投入で、菅義偉官房長官(現首相)は「日本は法治国家だから」と繰り返し発言した。二人の発言に通底しているのは、平和に暮らしたいという沖縄の人々の基本的な権利を脅かしている当事者でありながら、権力を振りかざして抑えつけようとしている点である。反米騒動当時、米国はベトナム戦争で政治的、財政的に疲弊し、沖縄を単独統治する余力はなかった。基地反対運動を抑え込む力はなかった。辺野古の新基地建設に躍起になっている日本の政権の姿も、国家衰退の兆候の一つかもしれない。

 政治的な無人島

 沖縄返還は、戦争で失われた領土と国民を平和的な交渉で取り戻した日本外交の成功例といわれているが、米国は財政的負担を減らし、政治的なリスクを回避して、自由に使える基地を沖縄に維持する保証を日本政府から取り付けることに成功した。
 「あなた方は沖縄を領土としてしか見ていないのではないか。140万県民が生活している」(2015年8月16日、中谷元・防衛相との会談で)と翁長雄志知事(故人)が発言している。
 国際政治学者・宮里政玄氏の主張は「ワシントンも東京も、沖縄には軍事基地だけがあって、住民はいないかのような政治を行っている。『沖縄の人々が自らの問題を問うことなく、これらの強者(米国、日本)に解決を委ねることは、そもそもパワーの放棄である(お人よしとして利用される「政治的無人島」となる)』」と我部政明元琉球大学教授が『宮里政玄先生を偲ぶ座談会 アメリカ研究と沖縄問題との津梁』(琉球大学島嶼地域科学研究所)のあとがきで書いている。
 これは、沖縄がこのまま「政治的無人島」にされてしまっていいのか、という県民への問い掛けでもある。

 たかみね・ともかず 1943年那覇市生まれ。70年に琉球新報中部支社報道部記者としてコザ反米騒動を取材。82年に沖縄返還交渉を担当した米国政府高官、歴代の高等弁務官から聞き取り調査。著書に『知られざる沖縄の米兵』(高文研)。