「いったーが、わったーあちゃーからぬはんめーでーや、んじゃすみ(お前らが、自分たちの明日からの飯代を出すか)」。1970年12月20日未明、外国人向けの店が並ぶコザ市(現沖縄市)のゲート通りで、怒号が飛んだ。「アメリカのお金で生活して幸せか。畑を耕して生きればいい」。外国人の車両を横転させた民衆の側が言い返した。沖縄住民同士が罵声を浴びせ合う光景が、新崎敬子さん(69)=西原町=の脳裏に焼き付いている。米軍基地の存在で住民が分断される現実に、胸が締め付けられた。
めいの誕生日祝いの帰り道。軍道24号(現国道330号)沿いで友人とバスを待っていると、パトカーが猛スピードで通り過ぎた。様子がおかしいと感じ、胡屋十字路方面の事故現場に向かった。事故処理をする憲兵隊と民衆がもめているようだった。遠巻きに見ていると、民衆が車両を囲み始めた。
突然、威嚇発砲の音が響いた。せきを切ったように、次々と人が集まった。鬱積(うっせき)した感情を吐き出し、叫ぶ民衆たちは、車を横転させ、火を付け始めた。「とうとう我慢の限界がきた」と心が震えた。
「1、2、3…」。新崎さんは軍道24号からゲート通りにかけて横転する車を1台ずつ指差し、台数を確認し始めた。怒号を上げる民衆や立ち上る炎には目もくれず、ひたすら車両を数え続けた。「歴史的な瞬間」をどうにか記録に残したいとの思いに突き動かされ、約2キロの距離を3往復した。米国政府の報告書では被害車両は82台とされるが、新崎さんは「108台だった」と振り返る。
米軍嘉手納基地の第2ゲート前まで来た時、台数を数える手が止まった。隊列を組み、銃を手にした米軍が待ち構えていた。「沖縄の人を殺すつもりだ」。それまで平静を保っていたが、思わず身震いした。
ゲート通りで言い合う沖縄住民の姿に、自らの暮らしを重ねた。家族は戦前に南洋諸島へ移住し、戦争で長男を亡くした。沖縄に引き揚げた後は住む家もなく、姉たちが基地従業員やAサインバーのホステスとして働き、その稼ぎで高校にも通えた。貧しさの中、基地から収入を得るしかなかった。
それでも、戦争の「拠点」となる基地に反対し、運動に参加して反戦の気持ちを貫いてきた。母や姉から南洋での戦争体験を何度も聞き、戦争の悲惨さや愚かさを知った。
コザ騒動から50年がたち、沖縄を取り巻く状況はさらに悪くなったと感じている。「米国は軍事力を強化し、日本は追従している。歯止めをかけるためには、今こそ、あの時のエネルギーが必要だ」。嘉手納基地を見詰め、訴えた。
(下地美夏子)