<不条理への抵抗・コザ騒動50年>コザ「騒動」か「暴動」か 事件の歴史的な評価を模索 恩河尚


社会
この記事を書いた人 Avatar photo 田吹 遥子
壁に貼られたコザ騒動体験者の証言集=12月6日、沖縄市中央の沖縄市戦後文化資料展示館ヒストリート

 暴動、騒動、事件、反米騒動、民衆蜂起、変わり種には一揆等々、事件の性格をめぐってさまざまな表現が、これまでなされてきた。ただ、事件が起きた当初から琉球新報や沖縄タイムスは、「騒動」という表現にほぼ統一している。

 これについて少し調べてみた。まず琉球新報である。「沖縄の新聞は期せずして『コザ(反米)騒動』と表現した。これは、事件がいわば現代の『コザ一揆(いっき)』とも呼ぶべき性格をもっていると判断したから」(1970年12月25日)とある。

 琉球新報、沖縄タイムス両社の社内で、事件の表現をめぐって、相当な議論があったことは、耳にしたことがある。事実、沖縄タイムスには「議論の末、住民側の視点に立ち、『騒動』に統一して使った」(2000年9月23日)とある。興味深いのは、さきの琉球新報の記事に、「期せずして」とある点だ。両社が協議を行った上で、「騒動」に統一したのかな、とも考えられたからである。いずれにせよ、一揆も同様、住民側の視点にたって、「騒動」と表現するようになったのであろう。

 

事件をどう表現

 沖縄市は去る10月13日から、沖縄市戦後文化資料展示館「ヒストリート」で、「『コザ暴動』を考える―あれから50年」と銘打って、企画展を開催している。この企画展を含め、市史編集事業で用いている事件の表現は、括弧付きの「コザ暴動」である。それは「たんなる騒動ですませていいのか」という、市民の強い声もまたあるからだ。後述するように、全容がまだ見えない中、事件に対する表現には難しいものがある。

 実際、「『騒動』という言葉を使いながら、どこか引っかかりを感じるのは、混乱の中に、ある種の秩序があり、暴力性の中に、抑圧からの解放を求める民衆の希求が感じられるからだ」との新聞社の声もある(沖縄タイムス社説、2010年12月5日)。「ヒストリート」の運営は、市の総務課市史編集担当で行っており、事件の表現は、最終的には市史編集事業の附属機関である「市史編集委員会」に諮られ、決定される。「コザ暴動」は、その間の、暫定的な表現である。

 さて、一部、展示の紹介を行おう。企画展は「ヒストリート」の2階フロアで開催されているが、階段を上がると、まず壁面全体をおおった事件現場の大きな地図が、目前に表れる。米軍の事件報告書(沖縄市『米国が見たコザ暴動』)には、82台の車両が被害にあったとされている。

 地図は、その車両が被害にあった場所と、事件の原因になったという三つの交通事故現場を中心に、その周辺には関係写真と、それぞれの現場に居合わせた住民の証言が「吹き出し」風に、しかもおびただしく配されている。

 一見、その数の多さに面食らうのであるが、「吹き出し」証言がコンパクトなためか、意外と入館者に、丁寧に読んでいただいている。事件から50周年という節目にあたるためであろう、今年は県内外の新聞、テレビ等の取材も多く、この壁の前で、ゲストに語ってもらうというシーンも散見される。

 

「その後」意識

 今回の企画展は、じつは「コザ暴動」の「その後」を意識している。これまで我々は、特に10年前(40周年)から、主に旧「ヒストリート」にゲストをお招きし、市民やマスコミの方々とともに調査を重ねてきた。ゲストの内訳は、旧琉球警察官、検察庁職員、マスコミ関係者、クラブ経営者やバーテンダー、ミュージシャン、軍雇用員、自動車修理工、高校生、小学生等々、じつに多岐に及んでいる。その結果、当日の状況はある程度、把握できるようになった。

 問題は「その後」である。事件の直後に発動された「コンディショングリーン」(外出禁止令)によって、米軍人・軍属を主な顧客とする、例えばAサイン業者の皆さんは深刻な打撃を受けるが、そうした短期、直接的な影響はもちろんのこと、中長期的には、事件はどのような意味を持っていたのであろうか。

 

時代背景

 「コザ暴動」が起きた1970年前後は、ベトナム戦争の泥沼化によって軍事的・経済的に疲弊した米国が、ソ連や中国との関係改善、いわゆるデタント(緊張緩和)を図り、さらに対外関与の抑制と同盟国への防衛上の負担分担を推進した、いわゆる「ニクソン・ドクトリン」が公式化された時代であった(野添文彬『沖縄返還後の日米安保』)。

 そうした時代背景の下、沖縄の日本復帰が決定され、「コザ暴動」が起こったのである。「ニクソン・ドクトリン」の下、在韓・在日米軍が縮小される一方、俄然(がぜん)、クローズアップされたのが沖縄における米軍基地や海兵隊のプレゼンスであった。そうした日米両政府の動きにある程度、国民や県民の声が影響を与えていたことは、すでにいくつか指摘されている(例えば、野添、前掲書)。  つまり高等弁務官レベルではなく、歴史的意義というか、日米両政府に事件はどう映って、その判断にどう影響を与えたのか。「コザ暴動」の歴史評価を模索しながら『沖縄市史』(戦後編)を編んでいく、我々の大きな仕事の一つである。

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 おんが・たかし 1953年旧美里村生まれ。沖縄市職員として市史編集に携わり、2014年3月に定年退職。元沖縄県地域史協議会代表。現在、沖縄国際大学非常勤講師、沖縄市会計年度任用職員。