社会

気持ちはわかる、でも正当じゃない…女子高生はなぜ葛藤したか 金城恵美子さん



「東宝石店」の前でコザ騒動を振り返る金城恵美子さん=2020年12月1日、沖縄市

 「この街も、外国人も嫌いだった」。沖縄市中央にある「東宝石店」の長女・金城恵美子さん(67)。「この街」とは生まれ育ったコザの街のことだ。

 幼い頃、自宅近くで遊んだ思い出はない。父が営む宝石店の店舗兼自宅があるのはビジネスセンター通り(現在の中央パークアベニュー)。米軍関係者向けの土産品店や質屋、飲み屋が並んんでいた。通りから聞こえる怒鳴り声や笑い声―。酔っ払ったり、けんかしたりする外国人の姿をよく見た。喧噪(けんそう)は日常だった。

 物心がついたときから、両親は「危ないから」と外出を厳しく制限した。通りを挟んで向かいの店主が米兵同士のけんかに巻き込まれ、刺殺されたこともあった。同じ年頃の女性が米兵にレイプされた事件を耳にしたときは、自分のことのように胸が痛かった。



高校生の頃の金城恵美子さん(後列左から2人目)

 「私は何でここに帰ってくるんだろう」。学校から帰るのが嫌になった。一方で、父が営む宝石店の客は外国人がほとんどだった。高校生になると、彼らの落とす金で学校に通えることに、負い目を感じ始めた。

 コザ騒動が発生した1970年12月20日の夜もセンター通りは喧噪に包まれていた。いつもと同じように。だから、すぐ近くの軍道24号(現国道330号)やゲート通りで、沖縄住民が車を横転させ、炎上した騒ぎが起きていることにも気付かなかった。

 翌朝、新聞で騒動を知り、「何でこんなことを」とショックを受けた。家で騒動が話題に上ることはなかったが、新聞を見詰める父が渋い顔をしていたことはよく覚えている。



コザ騒動を伝える紙面


 騒動後、米軍は軍人と家族の外出を全面禁止する「コンディション・グリーン1」を発動した。その後も全軍労のストなどに対する制裁的措置として「オフリミッツ」を発令し、米軍関係者向けの店の売り上げは落ち込んだ。宝石店もその度に休業せざるをえなかった。

 同級生の多くは騒動について「米軍に対する住民の怒りの表現だった」と受け止めていたが、金城さんは違った。「気持ちはわかるけど、正当な方法ではない」。心の中でそう思いながらも、意見がまとまっていく中で手を挙げられなかった。

 これまで住民に対する米軍の暴力を目の当たりにしてきたが、騒動を肯定はできなかった。ただ、米軍から生活の糧を得ていることに後ろめたさも募った。気持ちを整理できたのは、母親となり、子を育て、店を手伝い始めてからだった。

 1972年の日本復帰やドルショックなど、激動の時代を乗り越え、なりわいをつないできた両親の苦労がわかるようになった。この街で生きた人のたくましさを感じ、誇らしくも思えた。



現在のパークアベニュー=2018年11月撮影


 騒動から50年。街の風景は様変わりしたが、宝石店は今も通りにたたずむ。金城さんは通りを見つめ「今では街を愛おしいと思える」と微笑んだ。



(下地美夏子)


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