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11歳の玉城デニー少年が見た「コザ騒動」 あれから50年…沖縄は変わったか【インタビュー全文】


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
幼い頃に目撃した「コザ騒動」について語る玉城デニー知事

 1970年12月20日未明、米軍人が起こした交通事故と米憲兵隊の事故処理に憤慨し、沖縄県コザ市(現沖縄市)で民衆が車両を焼き払うコザ騒動が発生した。当時、現場近くに住んでいた玉城デニー知事(61)は、路上でひっくり返り、焼け焦げになった車を目の当たりにした。騒動から50年に合わせて琉球新報の単独インタビューに応じ、「沖縄の中の不条理はあの頃と変わっていない」と語り、コザ騒動を「われわれを虐げるものに対する、ため込んでいた怒りが表に現れた出来事」と振り返る。インタビュー全文は以下の通り。

■「イコール戦争」の恐怖  

―50年前に起きた「コザ騒動」の当時、どこに住んでいましたか。

 「現在の沖縄市・中央パークアベニュー、昔センター通りと呼ばれていたところから北側に100メートルくらい入ったところに母と2人で住んでいたました。学校は今のうるま市の与那城小学校で5年生でした。僕が1年生のころから通っている小学校にバスで通学していました」

―「コザ騒動」当日のことを教えてください。

 「コザ騒動が起きた日の前の晩、土曜日の夜から、人が走って行く音や大声で騒ぐ音がして、物々しい雰囲気でした。母は普段、僕は映画が好きなので、遅くまでやっている映画のテレビ番組を見せてくれましたが、その日は『電気消して早く寝るから』と。借りていた長屋が木造瓦葺きの家なので、外の音がどんどん聞こえてきました。『何が起こっているんだろう』と思っていました」

 「当時所属していたボーイスカウトの集会に行くため、翌朝7時ごろに起きて、一緒にボーイスカウトに通っている隣近所の友達を誘って現場を見に行きました。胡屋十字路にあった歩道橋の上からプラザハウスの方向を見ると、道路の真ん中に車が真っ黒になってひっくり返っていました。『戦争に起こったのか、大変なことがおこったんじゃないか』と思ったのがあの時の強烈な印象です。まだ煙がくすぶっている車もあり、オイルやゴムの焼ける匂いがそこら辺に充満していました」

 「見物人もたくさんいたが、誰も騒いでいないんです。静かにみんな『何が起こったんだ』ということを見ているような、本当に異様な雰囲気でした。僕の印象はモノトーンの風景を見ているような感じでした。今なら『テロだ』ということも考えるかもしれないが、その頃は基地の前の道路で車がひっくり返されて明かに燃やされていることイコール戦争という恐怖感です。なんとも言えない気持ちだったことを今でもよく覚えています」

 「ボーイスカウトの集会が終わったのが正午ごろ。その頃には車も道路の脇に片付けられていたり、一部はトレーラーに積んで撤去したのか、片付けられたりしていました。その何時間かのうちに少し車の通りは確保されていました。それだけ見たらいつもと変わらないような雰囲気でしたが、道路の脇にはまだ残骸になった車が置かれていました」

■たまっていた怒り

焼き払われた米軍関係車両を見る人たち=1970年12月20日

―その後、コザ騒動の背景をどのように知ったのですか。

「騒動の直後、テレビのニュースや母親に聞いたり、周囲の友達に聞いたりしました。それから成長して、1970年という時代を振り返ると、いろんな社会的な鬱積された状況があり、県民が突発的にあのような行動に駆り出されたと理解しました。今まで押さえていたものがせきを切ったように、と。『暴動』や『騒動』という言葉を使いますが、お店を襲ったりとか金品を略奪したりということは起きていません。明確に、あの時のウチナーンチュは我々を虐げているもの、大きなものに対してためこんでいた怒りが表に出たんだと思います」

「いろいろな文献読んでみると、そこを通りかかった白人が運転している車を止めて『出なさい』と求め、ドライバーは外に出されて、車だけがひっくり返され燃やされました。人に危害を加えるということではなく、米軍という今まで自分たちの生活や自由や権利をすべて強圧的に押さえていた大きなものに対しての怒りだったんだろうと思います」

「ベトナムから沖縄に一時帰還してきた兵隊たちはしばらくの休暇を取り、ベトナムに戻されます。兵士は自分の命と引き換えに今この時間を楽しもうと、刹那の思いでいたでしょう。恐怖といら立ちといろんな気持ちが彼らの中にあって、けんかや犯罪も起きました。そういうすべてが混沌としていたカオスの状態の時代だったと思います」

■私は変わらない

幼い頃に見たコザ騒動の記憶をたどる玉城デニー知事

―「コザ騒動」が沖縄の社会にどのような影響を与えたと考えますか。

「沖縄の社会よりも、逆に米側や日本政府には抑圧された民衆の蜂起という風に映ったのではないかと思います。さまざまな米軍関連の事件・事故が起きても、沖縄側に裁判権や警察権がなく、結果的にはほとんど無罪になってしまう状況もありました。佐藤・ニクソン会談で沖縄の1972年返還が話し合われましたが、米兵の犯罪は止まらない。結局、直接被害を受けているのは自分たちなんだと精神的、肉体的にも苦痛を与えられ続けていたんだと思います」

―現場を目にしたことによって、知事は何らかの影響を受けましたか。

「私は、父が元マリン兵でアメリカ人、母はウチナーンチュですが、幼い頃から父と生活したことはなく、父の顔も知らずにウチナーンチュの環境の中で育っていました。普段の生活の中で、自分がアメリカ人であることやアメリカ人の父親を持つことをあまり感じませんでした。ただ、上級生にいじめられたり、他校の人から僕がハーフであることをからかわれたりすると、僕の気持ちの中でアイデンティティーの部分から、わじわじーしたりすることはありました。でも、コザ騒動があったから何か自分の中で変化があったことはほとんどありません 。自分の意識の中にもコザ騒動がきっかけで何かが変わったかとか、何か影響があったということはほとんどなかったように思います」

―米国人とウチナーンチュの間に生まれた子どもだ、ということで他の人たちと比べコザ騒動の受け止め方が違うというようなことはなかったのですか。

「周囲にからかわれたりはしました。『歩いていたら、すぐ、たっくるされる(殴られる)んじゃないか』とか。でも、米兵を相手に仕事をしているバーテンダーやボーイの皆さんは自分の気持ちまで売っているわけじゃないし、割と血気盛んな人たちがいました。そうすると、すぐ『お前、バーの兄さんに殺されるよ』『歩いていたらすぐ殺されるよ』と言われて、最初何のことかな、と思っていたら、僕の見てくれがハーフだから、そうやってからかっているんだろうなと思ったりはしました。だからといって手をあげる人はいませんでした。バーの 兄ちゃんたちは優しかった。そういう意味では僕は普通のウチナーの生活をしていたし、ハーフという存在であることも、彼らは十分認めてくれていた。そのことを悲観するような環境でもありませんでした」

■沖縄の不条理変わらず

―コザ騒動から50年を経た現在も日米地位協定で米兵による事件・事故の扱いが不平等な状況が続いています。この現状をどう捉え、どう改善したいと考えますか。

「沖縄の施政権が日本に返還されたことによって、憲法の恩恵は享受されるようになっただろうと思います。ただ、率直に言えば、沖縄の中の不条理というのは、あの頃と今も全然変わっていません。日米地位協定は1行も変えられていません。その不条理をしっかりと整理をしないまま、時代時代に対応することに追われるだけでした。本来真っ先に行われるはずの、米軍を受け入れるための日本の法体系の整備が置き去りになったとは、はっきりしています」

「われわれ沖縄県が昨年、一昨年、他国の地位協定の調査をしても明らかになりましたが、米軍を受け入れている国では、その自国の法律を米兵にも適応させています。しかし、日米安全保障体制ではどうかというと、他国の地位協定の姿とは全く真逆の仕組みになっています。戦後75年、コザ騒動から50年という、それだけの戦後の時間がたっているにも関わらず、地位協定が書き換えられていないのは一体誰の責任だ、ということはぜひ明らかにしていただきたい。戦後の取り残されている大きな矛盾だと思います」

■高笑いしているのは誰?

ーコザ騒動で見せた県民の怒りは、今もふつふつと沸いて来ているように思います。50年という節目で今の県民感情をどう見ていますか。

「県民はこの間、基地問題に対して非暴力、平和的な行動によって、我々の尊厳を関係国であるアメリカに分からせるという深い思いと行動がありました。平和裏に子どもも一緒に参加して、嘉手納基地や普天間飛行場を『人間の鎖』で取り囲むなど平和的に行動してきました。少女乱暴事件や教科書検定問題など、県民にとって許されざる状況が起こった時、県民は党派や政治的思想を乗り越えて一つになって行動し、『我々沖縄県民を踏みにじるものは許さない』と平和裏に非暴力的に示してきました。それは今でも全く消えていません」

「普段の行動はとてもおとなしい。平和と共生、命どぅ宝、イチャリバチョーデーという言葉で、平和の中で共に生きていくということをウチナーンチュは大切にしてきました。ただ、その深い愛情から日本政府に対しても『よく頑張っているからいいんじゃないか』という気持ちにもなりがちです。ある意味で言うと、優しさの負の側面も持っているのです。ウチナーンチュ同士が選挙などで対立し、争っているのを誰かが上から見ている。50年前のコザ騒動はまさに、沖縄県民を押さえつけて高笑いしているのは誰なんだ、ということを見せつけた 行動であり、心情の吐露だけに終わらず車を焼いてしまえ、というところまでいったのだと思います」

■歩み寄り、対話する

―コザ騒動と同じようなことが今後起きかねないと考えますか。

「どういう状況でそれが起きるか、ということは言えません。ただ、例えば私自身、父は元米兵で母はウチナーンチュ。そして僕の4人の子どもたちに何らかの不条理な形で被害がもたらされたら、私は恐らく一人の人間としてどう考えるか、ということに突き動かされるでしょう。相手が米軍であった場合はなおのことです。県知事という立場、日米の安全保障関係を認めているという立場、父親という家族を大切にしたいと思う立場と、さまざまな自分の中での葛藤が生まれることは間違いありません。その葛藤は何かを理由にして、押さえ付けられ ることはないと思います。その時になって自分がどういう対応をするかということ。それは、その時の自分が非暴力・平和的に、どう問題に対峙(たいじ)するかということになると思います」

「昔の人は『戦争もしたくない、敵もつくりたくない。みんなで平和に暮らしていったらアメリカーもウチナーンチュも関係ないよ』とよく言っていました。社会的な状況から立場が分かれてしまうような問題があれば、その原因や仕組みは何なのかを考え、お互いが歩み寄り、対話し、協力する場面も必ずつくれると思います。ウチナーンチュはこれまでの時代の中で、社会的な経験を積んできました。ウチナーンチュは、強い信念と人と平和を大事にしたい温かい思いも併せ持っていると感じています」