5位から逆転劇で個人総合「金」 体操ニッポンの命脈保つ 具志堅幸司の快挙 沖縄、大阪で感動の涙(下)<沖縄五輪秘話23>


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 日体大在学中の2度の大けが、80年モスクワ五輪のボイコットという度重なる逆境を乗り越えた具志堅幸司。78、79年の全日本選手権個人総合は好調だった前半から後半の自由演技で順位を落とし、3位、6位という結果に終わり「先行の具志堅」と揶揄(やゆ)される時期もあった。しかし、80年は安定した演技で初優勝を達成。もがき、苦しみ抜いた苦い経験は、心をより屈強なものとした。

 翌81年のモスクワ世界選手権で個人総合3位、83年のブダペスト世界選手権では2位。世界の頂に向け、着実に階段を昇る。「次は優勝を狙ってもいい」。心技体が充実し、84年のロス五輪を迎えた。本番の1カ月前、再び沖縄を訪れた。名護の父方、石川の母方の親戚が名護に集い、壮行会を開いてくれた。墓にも足を運んだ。当時27歳。「最初で最後のオリンピック」との覚悟だった。

無心の演技

 出国前、高校時代の恩師、桑原昭吉から「行動が美しくなかったら、世界一になってもどうしようもない」と無欲で臨むよう諭された。「悔いのないように。普段通りやれば最高の試合になるはずだ」。体操を始めて16年。探求し続けた“美しい体操”を無心で演じようと心に決めた。

 五輪第6日の8月2日、米カリフォルニア大ロサンゼルス・ポーリー・パビリオン。愛用のタオルに自身を支えた「突破」の二文字を縫い付けた。3位に終わった団体総合の成績を踏まえ、個人総合はこの時点で1位のピーター・ビドマー(米国)と0・175差の5位。強豪国の威信を懸けた優勝争いが幕を開けた。

 ビドマーが最初の鉄棒で10点満点をたたき出すと、2位の李寧(中国)が次のあん馬で9・95の高得点で並ぶ。頂上決戦を繰り広げる両雄を虎視眈々(たんたん)と追うのが162センチの小柄な具志堅だった。

 2種目目のつり輪で新月面宙返り降りを鮮やかに決めて9・95。続く跳馬は伸身ツカハラ1回ひねり跳びで着地をぴたりと止めて10点満点を獲得し、3位に浮上した。1位まであと0・025。5種目目の鉄棒で9・95をマークすると、ビドマーと李を抜き去り、単独トップに躍り出た。

 この時、1位になったことは自覚していない。「迷わず、自分のペースで“具志堅の体操”を」。無心の演技は続く。最終種目は床。最後は後方抱え込み2回宙返りで宙を舞うと、フロアに吸い込まれるように着地が決まった。得点は9・90。2位ビドマーも最終の平行棒で同点数を出し、0・025差のまま具志堅の1位が決まった。

 「やった! 具志堅、優勝だ!」。仲間から祝福され、飛び跳ねながら2度、3度とガッツポーズ。力を出し切り「一片の悔いも残らなかった」。表彰台の中央で金メダルを胸に掛け、右手で花束を掲げる。目を光らせながら、拍手に包まれた会場に満面の笑みを振りまいた。

名護でも歓喜

具志堅の写真を手に当時を振り返ったいとこの具志堅信男(右から2人目)=11月26日、名護市源河

 歓喜の波はテレビ中継を通し、故郷の大阪市大正区や父方の実家がある名護市源河にも。北部製糖に勤めていた父方のいとこ、信男(74)は勤務中に「職場にある2カ所のテレビで見ていた」。同僚と一喜一憂して見守った。優勝が決まった瞬間、自宅では4人の息子たちが「おじさんバンザイ」と大喜び。妻の智子(71)は隣近所からの祝福の対応に追われた。木造の家はどんちゃん騒ぎに。信男は「優勝するとは思っていなかった。誇りだ」と今でも頬を緩める。

 ロスでの興奮はまだ終わらなかった。具志堅は2日後の種目別でつり輪1位、跳馬2位、鉄棒3位に。個人総合と合わせ金2、銀1、銅2という圧巻の活躍を見せた。団体総合は3位でモスクワを除き団体の五輪6連覇を逃し、世界一の座から陥落した体操ニッポンにあって、具志堅の金は一層輝きを増した。

 あれから36年。「うれしいを通り過ぎた感情。表現できる言葉が思い浮かばない」と振り返る。85年に引退後は指導者に。2008年北京五輪では男子監督を務めた。現在は日本体操協会副会長の重責を担う。

 日体大学長室でのインタビューの最後、五輪を目指す沖縄の選手たちにエールを求めた。「ちばりよー」とおどけたように笑った後、こう続けた。「夢を諦めずに追求していけば、それが道になりますから」。ゆったりとした口調で語った言葉には、誰しもを納得させる重みがこもっていた。

(敬称略)
(長嶺真輝)
(おわり)