第32軍と新聞 住民の痛苦、伝えられず <おきなわ巡考記>藤原健(本紙客員編集委員)


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 沖縄戦での「新聞と軍」について書く。4分の3世紀を数えた戦後の節目の年が暮れ行くなか、そのときの新聞人の行動を、今に引き寄せて考える。

 80年前の1940年12月20日。琉球新報、沖縄朝日新聞、沖縄日報が統合し、地方紙の「1県1紙」策で沖縄新報が創刊された。5年に満たずして廃刊したが、沖縄戦の最中だった最後の2カ月、1945年3月末から5月25日の間は首里城構内の「東のアザナ」とも「高アザナ」とも呼ばれた高台斜面の留魂壕で発行した。

 壕は沖縄師範男子部の生徒が掘って寝起きした。ここに沖縄新報が間借りした。戦闘を指揮した第32軍司令部が潜んだ構内の地下壕から、最短で5分足らずの距離である。入口から15メートル奥に印刷機が据えられ、通路の壁に活字ケースが並ぶ。奥に向かって通路左の間口3メートル、奥行き2メートルのスペースが編集室で、編集局長と8人の記者が原稿を書く。新聞は師範生らが配達する。

 全国紙は沖縄では発行していなかったが、海外での呼称だった「特派員」として記者が司令部地下に詰めた。日本本土に向けて原稿は軍の無線で送った。

 記者は全員、「球一六一六部隊報道班」の腕章を巻いた。司令部付報道班員の証だ。参謀に接触できるが、命の保障はない。沖縄戦で犠牲になった新聞人は、沖縄新報12人に全国紙の毎日新聞1人、朝日新聞1人の計14人。

 危険と隣り合わせの新聞づくり。沖縄新報記者だった仲本政基さん(1990年死去)は『那覇市史 史料篇 第2巻中の6』に収録された「新聞人の沖縄戦記」で、「登山家が『そこに山があるから登るのだ』といった具合に、当時の新聞人はどんな逆境にあっても、新聞をつくるのをやめなかった。それが使命だからである」と書いている。

 毎日新聞那覇支局長の野村勇三さん(79年死去)は支局記者、下瀬豊さん(沖縄戦で戦没)と連名で5月18日付朝刊に「血で進攻を阻む/那覇・首里に激戦」を、翌日付朝刊も連名で「猛雨をおかして斬り込み/昼を欺く敵の照明弾」を、いずれも1面トップで報じた。野村さんは、司令部で書いた原稿を無線局のある壕まで届けるため、砲煙弾雨の下を走った。「厳しい沖縄戦の実態を内地に伝えなければならない使命感にかりたてられた」(『毎日新聞西部本社五十年史』)からだ。

 間違いなく使命感はあった。だが、肝心の紙面の中身はどうだったか。情報を軍に頼ったため戦局報道が主で、「軍民共生共死」を強いた司令部に翻弄される住民の悲惨な姿には取材が及んでいない。報道班員とは、軍の宣伝要員だったのだ。

 「原稿を書く資格があるのか」。新聞人の心の内を、作家、織井青吾さんは自著『最後の特派員―沖縄に散った新聞記者』で、こう推し量る。母のいとこで、朝日新聞那覇支局長だった宗貞利登さん(沖縄戦で戦没)の足跡を追って本にまとめた。

 「書く資格」とは、軍の圧力をはね返し、住民の犠牲に目を凝らして戦争の実相を世に問う勇気のことだ、と私は思う。当時の新聞人には、それが欠けていた。ただ、後の時代の「安全地帯」から、あしざまに批判するだけの愚に陥ってはならない。個々の限界と葛藤を乗り越え、今の教訓にするには「私だったら、どうするか」という内省が欠かせない。

 厳しい目を自らにも向け、戦場体験者の想いを自分ごととして受け止める。住民のつらい記憶を決して忘れることなく、過去にあった国による記憶の書き換えも許さない。それが戦後沖縄の継承ジャーナリズムの神髄であり、周辺で学ぶ私も、その一翼を担いたい。読者のために「書く資格」の重さを次代に伝え、それを失った先人の悔いを繰り返さないために、である。

(元毎日新聞大阪本社編集局長、那覇市在住)