社会

基地と男性に頼りたくない 20歳の女性は沖縄を旅立った<女性たちのコザ騒動>(中)


 米統治下の沖縄で人々が怒りを爆発させた。約80台の米軍関係の車両を焼き打ちした「コザ騒動」から今年で50年。当時、コザ市(現沖縄市)の街にはバーやキャバレー、ナイトクラブなど「夜の街」で働く女性たちが大勢いた。米軍関係車両を焼き払ったのは男性たちだったが、働いていた多くの女性たちはそれを見て何を思っただろうか。なぜあの事件が起きたのか、その後何が起きたのか、主に女性たちの証言から見つめ直す。

(玉城江梨子)


女性の労働で成り立った「基地経済」


 基地の街・コザ市の経済は女性たちの労働によって支えられていた。『沖縄県史各論編第8巻女性史』によるとコザ市で従業員数第1位の商業は、日本復帰前は一貫して「バー・キャバレー・ナイトクラブ」などの接客を伴う飲食店で、従業員のほとんどが女性だった。1970年のデータでは2位以下も食品小売業、洋裁店、食堂・レストランと続き、いずれも従業員は男性より女性が多かった。

 「沖縄の人のことを初めてすごいと思った」一方で、「複雑でもあった」と話すのは現場近くのクラブで働いていた雛世志子(ひな・よしこ)さん(89)=当時39歳=だ。


コザ騒動当時の状況や自身の生い立ちを語る雛世志子さん


 大阪で生まれ、広島に移り住んだ。しかし、1945年8月6日の原爆投下で家族4人の暮らしは変わる。雛さんと父は原爆投下直後に爆心地近くに入って入市被爆。47年から父の故郷である奄美大島で暮らしたが、父は1年後に放射線の影響とされる白血病で死亡した。母と姉の女性3人になった雛さん一家は、1950年、朝鮮戦争特需で景気がいいと言われていた沖縄へ。当時多くの奄美大島出身者が働き口を求めて沖縄へ渡っていた。雛さんも旅館で住み込みで働いたり、メードをしたり、沖縄本島内を転々とした。


母の治療費のため、借金


 被爆の影響か原因は分からなかったが母はよく病気をした。日本本土は1961年に国民皆保険制度が確立していたが、当時の沖縄は常時5人以上の労働者を雇用する事業所に勤務する労働者とその家族を対象とした被用者保険しかなく、住人の大部分は保険の対象外。医療を受けるには多額のお金が必要だった。「普通の仕事では給料も安く、借金もできない。飲み屋の仕事は借金ができる」と母の治療費を稼ぐためバーやクラブで働き始めた。


米軍嘉手納基地内の外国人宅でハウスメイドとして働いた雛世志子さん(左から2人目)(本人提供)

 50人ほどのホステスがいる那覇のクラブで働いている頃は、毎日50~60杯飲んだ。トイレで吐いて少し休み、戻ってまた飲むという日々だった。赤ちゃんだった娘は母に預け、ひたすら飲み、働いた。この店から借りた100ドルは約4カ月で返した。母と娘にひもじい思いをさせてはいけないと死にものぐるいだった。

 その後、コザの街へ。昼は基地の中でメード、夜は米兵相手のバーや飲食店などで働いた。現在もあるカフェバー「OCEAN」の前身で、当時米兵相手の飲食店だった「スーゼット」で働いていたのは、ベトナム戦争の頃。明日ベトナムに行くという若い兵士たちは戦場の恐怖を紛らわすように派手に金を使い、女性たちに酒を振る舞った。「18、19歳の子が『明日はベトナムに死にに行く』と泣きながら飲んでいた。その姿がかわいそうで…」



ホワイトビーチに到着したベトナム戦争の帰還兵=1969年11月24日


 そんな米兵たちの姿を目にしていた雛さんにとってコザ騒動は「沖縄の人すごい」という印象の一方で、複雑でもあった。米国が広島に落とした原爆で被爆しながらも、沖縄の米軍基地によって今の生活が成り立つという状況、そして目の前で起きた、米統治への沖縄住民の蜂起。「米兵も私たちと同じ人間。(コザ騒動で車が)やられた人はかわいそう。でもやった人の気持ちも分かる」

生まれた時からそばにある基地

 コザで生まれ育った屋良和子さん(70)=当時20歳=にとって米兵は幼い頃から身近な存在だった。親は米兵相手の店が軒を連ねる「センター通り」で銭湯を経営していた。地元客相手の商売だったが、近くのバーやキャバレーで働く女性たちを目当てに時折、米兵がやってきた。小学生の屋良さんは彼らを「ノー、ネエサン!ゲットアウェイ(お姉さんはいないよ、あっち行け)」と言って追い払ったり、下校中に米兵からカメラを向けられるとポーズを撮って「ワンダラープリーズ!(1ドルちょうだい)」と応じたりしていた。いつの間にか覚えた「ブロークンイングリッシュ」で米兵たちとやりとりした。


子どもの頃の屋良和子さん(本人提供)

忘れられない友人


 屋良さんには16歳の頃に出会った忘れられない友人がいる。屋良家が所有する貸家に1人で住んでいた同じ年の少女。奄美大島出身の彼女の部屋には米兵が出入りしていた。彼女は「チョコレート食べる?」「缶詰食べる?」と米兵が持って来た食料を屋良さんにくれた。そんなやりとりをしているうちに同い年だと知り仲良くなった。一緒に映画を見に行ったり、食事に行ったり、学校に行っていない彼女に教科書を見せ、今学んでいることを話したりした。

 彼女が米兵相手に売春をしていることはうすうす気づいていたが、深く聞くことはしなかった。「彼女は売られてきたと言っていたが、親きょうだいを恨んでいる様子はなかった。『自分はよかった。ここに来て良かった。家族が食べられるんだったら自分はいい』と言っていた。偉いよね」

 彼女のような女性は多かった。「売春防止法」審議のため琉球政府法務局が調査した「売春の実態」によると1969年3月時点で売春婦と思われる女性は県内に7362人いた。女性たちの多くが親の治療費や子どものため、生活苦から特飲街の業者から売買春で働くことを条件に前借金をしていた。

 そんな女性たちをコザの街は受け入れた。「たくさんの人が売られてきていたけど、プライベートには立ち入らない。だけど支え合っていた。軍からただでもらってくるものはどんどん横流し。回ってきたら分ける。それが自然にあった」


コザ騒動当時の生活や状況を振り返る屋良和子さん


 米兵がいることが当たり前の生活。周りには米軍相手の商売で生計を立てている人も大勢いた。屋良さんが当時勤務していた眼鏡店も客はほとんど米兵だったが、焼き払われた米軍車両を見て、「沖縄の人も感情はあるよ」とすっきりした気分だった。


米軍には手も足も出ない


 米軍人・軍属の事件事故は日常的に起きていたが、琉球警察には米軍人・軍属の捜査権、逮捕権はなく、琉球側に裁判権もなかった。「米兵と関わって命を落としたら損。とにかく手も足もでない。どうにもならない。(悪い意味で)宝くじにあたったねという感じ」

 コザ騒動から数カ月後、屋良さんは沖縄を出て東京で暮らし始めた。「女性でも経済的に自立をするために技術を身につけたい」という思いと「基地に頼って生きていきたくない」という思いからだ。「ここ(沖縄)にいたらダメだ。何をしてもアメリカが強くて変えられない」。コザ騒動で直視させられた沖縄の現実が、屋良さんを東京へと旅立たせた。「自分たちも努力をすればできる。虐げられない」。憲法のある日本ではすごく自由な空気を感じた。

犯罪は減少したが

 騒動から1年5カ月後の1972年5月15日、沖縄は日本に復帰した。復帰前と後で何が変わったのか。

 沖縄県警の犯罪統計資料によると、復帰以降に発生した米軍関係者の刑法犯摘発件数は2019年末までの47年間で6029件に上る。そのうち殺人や強盗、放火、強制性交等の凶悪犯は580件だった。復帰直後と比較すると減少傾向にあるが、殺人や強盗などの凶悪犯もたびたび発生している。


強盗事件が発生し現場検証や聞き取りが行われる両替所=2020年5月12日、北谷町


 1995年には米海兵隊員3人による少女乱暴事件が発生した。2016年には元海兵隊員で米軍属の男が女性を殺害。19年4月には海兵隊所属の海軍兵が女性を殺害後自殺する事件もあった。今年5月には北谷町の両替店に米陸軍兵と軍属が刃物を持って押し入り、現金を奪う強盗事件も発生している。


一度も改定されていない日米地位協定


 事件のたびに問題となるのが日本に駐留する米軍の地位について取り決めた「日米地位協定」だ。特に裁判権の問題は日米地位協定の不平等さが顕著に表れている。

 米兵が公務中に罪を犯した場合、米軍側に裁判で処罰する第一次裁判権があるため、原則として日本の法律で裁くことができない。公務でなかった場合は日本側に第一次裁判権があるが、日本側が裁判権を行使しないとする密約の存在が分かっている。地位協定の具体的な運用を日米間で決める密室の組織である日米合同委員会で53年に「日本は米国に対し、特に重要と考えられる事件以外は裁判権を行使しない」という密約が結ばれた。日本平和委員会が情報公開で入手した資料によると、2018年に日本国内で発生した米軍関係者による一般刑法犯は8割が不起訴になっている。

 米軍関係者による犯罪の身柄引き渡し問題もある。被疑者が基地内に逃げ込むと、米軍は起訴されるまで日本側への被疑者の引き渡しを拒否できる。95年の少女乱暴事件以降は、凶悪事件に限り米側が「好意的考慮」を払うという「運用改善」で、日米両政府は地位協定改定要求の声の沈静化を図ろうとした。政府はこれまで、これら「運用改善」での対応に終始し、沖縄側が求めてきた地位協定の抜本的見直しを拒否している。




 50年前、コザの街にはバーやキャバレー、ナイトクラブなど「夜の街」で働く女性たちが大勢いた。あの騒動を彼女たちはどう見ていたのか。それにより彼女たちの生活はどう変わったのか。それが知りたくて当事者を探したが、難しかった。理由は二つだ。一つ目は当時働いていた人は、出稼ぎに来ていた人たちで今はもうコザにはいないこと。もう一つはあの頃のことを語りたくない、というものだ。コザが米軍基地で潤った時代は、女性への暴力が多発した時代でもある。「コザ騒動」の歴史的評価や意義はまだ定まっていない。当時現場にいた人だけでなく、女性や子どもの目から見たコザ騒動をもっと掘り起こすことで、コザ騒動を多面的に捉えることができるだろう。



この企画は琉球新報社とYahoo!ニュースによる連携企画記事です。

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