「米軍機の爆音、当たり前じゃない」 原告団初参加の男性の思い<第3次普天間爆音訴訟>


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静かな環境を願い、空を見上げる銘苅紹夫さん=21日、宜野湾市真栄原

 普天間飛行場を見つめ、銘苅紹夫(つぎお)さん(76)=宜野湾市宜野湾=がつぶやいた。「整理縮小されると思っていたのに」。いまだに返還が進まない同飛行場。取材中、基地内からは「ブー」という音が聞こえてきた。待機する機体のエンジン音だ。やがてこの音は爆音に変わり、住民の耳をつんざく。

 16年前の2004年、銘苅さんは基地の危険性を痛感した。当時、宜野湾市内には長男夫婦と生まれたばかりの孫娘が暮らしていた。そこから約100メートルしか離れていない沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落した。自宅にいた長男の妻は、おかしな飛び方をしている米軍ヘリが家の方向に向かってくるのを目撃し、慌てて部屋の中に逃げ込んだ。

 墜落と同時に、自宅に機体の破片が飛んできた。約15センチの大きさで、屋外の木の幹をえぐった後、止めてあった車の側面をへこませた。長男の妻と孫娘にけがはなかったが、気が動転し外に避難しようとしていたという。「もしも破片が飛んできた時に外に出ていれば、大けがしていたかもしれない」。銘苅さんは厳しい表情で振り返る。

 今回、普天間爆音訴訟の原告団に初めて加わった。05年の定年退職後、浦添市から宜野湾市の長男家族の元に引っ越すと、爆音がいやが応でも聞こえてきた。基地被害と隣り合わせの生活を強いられていると再認識した。「こんな住宅地の上空を飛んでいいのか」。疑問が募った。

 普天間飛行場は返還が進まないどころか、オスプレイが配備されたり、外来機が飛来したりと訓練が過密化しているように感じている。それに伴い米軍機の爆音も激しさを増すようになった。「家の中にいても耳をふさぎたくなるくらいうるさいよ」

 新聞で爆音訴訟団の募集を知ったのは今年の夏ごろだ。「自分が加わることで、飛行差し止めへの関心が地域に住む他の人にも広がってほしいから、行動を起こそうと思った」と参加した理由を語る。「子や孫は米軍機の爆音が当たり前の環境で育ってきた。私たち世代の役目は、その環境が本当は当たり前ではないと教えることではないか」と強調する。

 沖国大に米軍ヘリが墜落した時、生後間もなかった孫娘は現在、高校2年になった。「この子たちが耳を押さえずに済むような環境を取り戻したいね」。銘苅さんは願った。
 (砂川博範)