彫刻家フリオ・ゴヤさんが描く「曲線美と螺旋」の軌跡 「沖縄の血に固執しない」生き方 藤井誠二の沖縄ひと物語(22)


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アルベルト城間さんとの二人展で自身の作品に囲まれるフリオ・ゴヤさん=10月31日、沖縄市のプラザハウスショッピングセンター(ジャン松元撮影)

 鉄などの金属を主に使った彫刻家のフリオ・ゴヤさんは、ことし10~11月にかけて、ミュージシャンのアルベルト城間さんとプラザハウスで「二人展」を開いた。フリオさんの彫刻作品と、アルベルトさんはカホン(ペルーの打楽器)をモチーフにした作品を並べた。

 「彼とはスペイン語で話しますよ。スペイン語で話すと深いところとか話しやすいし、とくにアートに関することはフィーリングとかを合わせられる。周りで聞いている人は分からないかもしれないけど」と作品や材料を運ぶ軽トラックを運転しながら笑った。

 「彼はペルー出身だし、年齢は一回り彼のほうが若いけど、だいたい同じ時期に日本に来ている。両親のふるさとで音楽活動しようと思って彼はやってきたし、ぼくはふるさとを訪問する気持ちぐらいで来た。分野は違うけども、友だちとしてよく会っているよ」

ランドマーク

 ぼくが沖縄に足繁(あししげ)く通い始めた十数年前から、那覇から国道330号線を北上するとき、大平インターを越えて、伊祖トンネルに差しかかる手前の右手にある威風堂々とした建物が、ぼくは気になってならなかった。壁面に抽象的なデザインが施されている。あれはなんなのだろう。いつも想像を巡らせているうちに数年が経った。

 どんなアーティストが手がけた作品なのだろう。あの目立つ建物は、浦添市カルチャーパークの中にある多目的ホール「てだこホール」といい、その正面壁面に施された大型パブリックコレクションデザインは、彫刻家のフリオ・ゴヤさんの手によるものだということは、ある縁でご本人に会ってから判明した。

 「夜は照明がつくし、印象に残るよね。大工さんと協力して私のデザイン通り壁に穴を開けてくれた。工場で模様を入れてはめ込んだんだ。ああいう大型のものを手がけることになったのは、ある全国的に有名なビエンナーレ(美術展覧会)に応募して入選したのがきっかけだった。沖縄から誰も入ったことがなかったから、沖縄のメディアの注目を集めたんだと思う」

 「てだこホール」はもはや沖縄のランドマークの一つになってますよね? そうぼくが言うと、そうだろう?という顔をしてうれしそうに笑った。

彫刻の才能

アルベルト城間さん(左)とスペイン語で陽気に語り合うフリオ・ゴヤさん=10月31日、沖縄市のプラザハウスショッピングセンター(ジャン松元撮影)

 父母が沖縄の西原町出身。戦後、アルゼンチンへ移民した。沖縄は地上戦で土地が破壊され、生きるために新天地を目指した。フリオさんは首都ブエノスアイレスで生まれ育った。

 「父は地元(沖縄)で召集されたけど、生き延びて捕虜になって半年間ハワイに行って帰ってきたら、家族や親戚は戦争の犠牲になってほとんど死んでいた。父の前の奥さんと子どもも亡くなっていて、母と再婚したんです。悲劇としかいいようがない。むごい。そして、向こう(アルゼンチン)でぼくが生まれた。当時のアルゼンチンは軍事政権で徴兵義務があり、それを終えてから21歳で大学に入り、27~28歳のときに卒業した。大学4年と大学院3年、合計7年間勉強したよ。美術が好きだから芸大に入ったんだけど、アーティストになるかどうか意識はなかったと思うよ」

 アルゼンチンではトップの国立芸大だった。彫刻より絵が好きだったが、ある教師に彫刻の才能を見いだされ、そちらの道を選択した。軍事政権下では自由な表現活動が不自由だったから、同級生らはヨーロッパを目指した。フリオさんはアメリカを希望していたが、当時のアルゼンチンとアメリカの国際関係が原因でビザが発給されなかった。

 「ぼくは日本人だし、沖縄は両親のふるさとだし、まだ親戚もいたから、塗装やウエーターなどのアルバイトをしながら日本語を勉強したよ。アルゼンチンでは、家庭内では両親同士はウチナー口をしゃべって、兄とぼくはスペイン語でしゃべり、親とはスペイン語とウチナー口を交えたりしてたけど、日本語はほとんどわからなかった。沖縄に来てみたら、住みやすいし、移住を決めたんです」

 それが1985年のことで、既に30年以上が経過した。親が苦労してアルゼンチンに渡って息子が里帰りしたわけだから、歓迎ムードはあったと思うとフリオさんは回想した。子孫が戻ってくるという感じ、温かみを人々から感じたなと目を細めた。

 「でも、ぼくはウチナーンチュというより、ブエノスアイレスの人間だというアイデンティティーの方が強いんですよ。ぼくは沖縄独特の血筋にこだわる文化をあまり意識したことがないんです。ブエノスアイレスは移民がつくった町で、イタリア系、スペイン系が多い。ぼくはチーノ(中国系)とか学校では認識されていたし、ロシア系とかアラブ系とか、そういうふうに意識し合うのが当たり前だった。それは差別じゃない。国や民族や血のにるアイデンティティーに固執しないっていうこと。沖縄もそうなってもいいと思うよ」

内側から出るもの

 現在、瀬戸内海の小豆島にも知人のつてでアトリエをかまえている。島内の過疎の集落にある古民家を使っているが、沖縄からの移動時間が丸一日かかる。高松まで飛行機、港までバス、島までフェリー、アトリエまでレンタカー。だが、静寂に包まれ、流木や石を用いることで作品に沖縄とは別の息を吹き込む。

 作家は自分の作品に対して語らないほうがいいというのがフリオさんの持論だ。それでも螺旋(らせん)とか、独特の曲線といった表現の特徴が見る者を捉える。「どこか女性の体の曲線美のようなものが意識にはあるけど、意味を持たせるつもりはない。ぼくの内側が出てきたものに従うだけ。そこに何らかの世界観を個々が感じてくれればいいし、それを聞かせてもらうとぼくも勉強になるんだ」

 浦添にあるフリオさんのアトリエに足を踏み入れると、彼の脳内を覗(のぞ)き見たかのような不思議な感覚に陥り、私はしばらく立ち尽くしてしまった。

(藤井誠二、ノンフィクションライター)

ふりお・ごや

 1953年生まれ。アルゼンチン出身の県系2世。両親は西原町出身。ブエノスアイレス国立芸術大学卒業、同大学大学院修了。オブジェやモニュメント、レリーフなどの制作に鉄、銅、真ちゅう、亜鉛など金属を多用し、立体美と南米育ちらしくカラフルな色使いが特徴。
 

 ふじい・せいじ 愛知県生まれ。ノンフィクションライター。愛知淑徳大学非常勤講師。主な著書に「体罰はなぜなくならないのか」(幻冬舎新書)、「『少年A』被害者の慟哭」など多数。最新刊に「沖縄アンダーグラウンド 売春街を生きた者たち」。