騒音被害に境界なく 震えた父、ひ孫の代にも「基地負担の軽減とは何か」<第3次普天間爆音訴訟>


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米軍機の騒音が響く空を指さし、見上げる宮城盛光さんと米子さん=14日、北中城村

 米軍機の騒音が響く度、沖縄戦の記憶を思い出した父は体を震わせ、真夏でも毛布をかぶっていた。そんな父の姿を見詰めてきた宮城盛光さん(72)=北中城村安谷屋=にとって、米軍機は恐怖そのものだった。「今も変わらず爆音をまき散らし、飛び続けている」。やがて怒りに変わった声で言った。第3次普天間爆音訴訟の原告には、米軍普天間飛行場がある宜野湾市だけでなく、北中城村や浦添市の住民も加わる。北中城村は進入路の延長線上にあり、取材当日もヘリが頭上を飛び、飛行場に向かった。(新垣若菜)

 召集された父は戦時中、日本陸軍の第62師団(石部隊)に配属され、戦傷を負った。宮城さんは高校卒業後、「やむを得ず」米軍基地で少しの間働いた。一方、父は航空機の騒音を聞く度、体を震わせていた。次第に「戦争につながる基地はいらない」という思いが膨らんでいった。父の体の震えは、1984年に他界するまで続いた。

 宮城さんは87年に村議会議員選挙に当選し、32年間務めた。2002年、糸満市の平和祈念公園で開かれた沖縄全戦没者追悼式では、小泉純一郎首相(当時)に向かって、有事法制を進めていることに大きな声で抗議した。「有事法制は許さんぞ」「首相は献花する必要はない」。遺骨収集や不発弾処理が終わらない沖縄の状況を、直接投げ掛けたいとの思いからだった。

 あれから18年が経過したが、現状は変わらない。今回の訴訟から初めて原告に加わった。「私たちの声に対して、米国と日本の政府は聞く耳を持たない状態だ。基地負担の軽減とは一体何のことを指しているのか」。次は法廷の場で、司法と被告となる政府にあらためて問い掛ける。

 同じく原告となる妻の米子さん(68)も「自分の子どもたちも騒音に悩まされた。孫を預かる今もそうだ」と強調した。

 落下物への恐怖もある。93年12月、北中城村内の県道に、米海兵隊ヘリから重量約16キロの救難キットが落下した。95年7月には村内の民家屋上に、米海兵隊ヘリからヘルメットが落下した。同村に限らず、県内では米軍機からの落下事故が現在も相次いでいる。

 「基地がなければ起こることのない事故だ。いつもひやひやしている。恐ろしい環境にいることを国が認めてほしい。そんな日が来るまで、声を上げ続けるよ」。宮城さん夫妻が空を見上げた。