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石川高校(4)琉米親善と宮森小事故と…久高政治さん、フォーシスターズ<セピア色の春―高校人国記>


この記事を書いた人 Avatar photo 上里 あやめ
1970年ごろの石川高校の校門

 1959年の宮森小学校米ジェット機墜落事故の悲劇を後世に語り継ぐ「石川・宮森630会」の会長、久高政治(72)は22期。64年、石川高に入学した。バスケットボールに汗を流す高校生は「琉米親善」の空気を肌で感じながら、「祖国復帰」のうねりにも接した。

 「学校にやって来た米兵がバスケットを指導し、ユニホームやボールをくれた。民間地域に米兵が自由に出入りする時代だった。瑞慶覧の体育館で琉米親善の大会もあった。その頃、石川高校近くにやってきた復帰協(沖縄県祖国復帰協議会)の復帰行進を日の丸で迎えることもあった」

久高政治氏

 宮森小5年の時、ジェット機墜落事故が起きた。運動場で遊んでいる時に爆音に驚き、学校から逃げた。高校に入学した後、事故で大けがを負った同級生と友達になったが、お互いの体験を語り合うことはなかった。

 記憶から遠のいていた宮森の体験を意識するようになったのは、定年間近の頃。体験記の執筆を知人に請われて記録写真を見たことがきっかけだ。その後、630会の運動に参加し、証言の収集活動を始めた。「宮森の事故がどのような事故だったのか、運動に参加して初めて知った」と久高は話す。

 2年前、630会は平和の思いを込めた詩歌を公募する「平和メッセージ」事業に取り組んだ。寄せられた作品数は711点。審査員を務めたのは石川高校の先輩、野ざらし延男、玉城洋子らであった。

 久高が小学生の頃、石川の自宅近くに、民謡グループ・フォーシスターズの姉妹4人が住んでいた。いずれも石川高校家政科の卒業生。そして3人が宮森小ジェット機墜落事故の体験者であった。三女で24期の伊波みどり(70)、四女で26期の智恵子(68)は墜落の衝撃音と校内の混乱を忘れることができない。

フォーシスターズの伊波みどり氏(左)、伊波智恵子氏

 姉妹には3人の兄がいたが、テニアンから日本へ引き揚げる時、乗っていた船が米軍に沈められ命を落とした。同じ船にいた母と長姉は奇跡的に生き延び、沖縄に戻った。戦後、石川のカバヤー(仮設住宅)で暮らした姉妹は帰郷した父から戦争のむなしさを幾度も聞かされた。

 60年、フォーシスターズ結成。名付け親は照屋林助と共に石川の収容地区を回り、戦災でうちひしがれた人々を励ました小那覇舞天(本名・全孝)であった。4人は人気者となり、みどりと智恵子は高校に通いながらステージに立った。

 みどりは「高校に迎えに来た車の中で化粧をして会場へ向かった。沖縄の年中行事を一手に引き受けるような忙しさだった」と語る。「高校では『あなた、おしろいのにおいがするね』と言われたことがある」と智恵子は笑う。

 60年末、反基地運動が広がった。みどりはリボンを身に着けて「B52撤去」を訴える集会に参加した。自身の宮森小での体験、父たちから聞いた戦争体験を思い浮かべながら。

 そんな頃、親子ラジオで普久原恒勇の作品を聞く。民謡やお祝いの歌ばかりでいいのか悩んでいた智恵子は普久原メロディーに新鮮な驚きを感じた。「ああ、この歌だよ。私たちが歌いたいのは」

 72年、復帰。歌いながら世替わりに翻弄(ほんろう)される県民と向き合ってきた。みどりは「私たちは一生懸命に日本人になろうとした。でも、復帰してもヤマトンチューにはなれない」と語る。「アメリカ世、ヤマト世を見てきたけど、ウチナー世にはなかなかならない。心が休まらないね」と智恵子は言葉を継いだ。

 結成から60年。生きている限り、歌い続けると誓う。4人が大切にしてきた作品の一つに「やっちー」がある。亡くなった3人の兄(やっちー)へ語り掛けるように姉妹は歌う。

 「語らなや星に 天じゃらに橋かきて 覚出すさ 覚出すさ 童小の昔 やっちーたい うり語らなや」
 曲は普久原恒勇、詞は石川高校の先輩、上原直彦である。
  (本文敬称略)
(編集委員・小那覇安剛)

こちらから校歌が聞けます。