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石川高校(5) 戦後沖縄芸能の発祥の地で 照屋林賢さん、闘牛アナ・伊波大志さん<セピア色の春―高校人国記>


この記事を書いた人 Avatar photo 慶田城 七瀬

 戦後沖縄の政治、経済の発祥の地である石川は芸能復興の地でもあった。1945年12月、城前初等学校で開かれた「クリスマス演芸大会」は、戦後沖縄芸能の出発点とされる。アメリカの音楽文化も石川に流れ込んできた。

平良栄一氏

 石川高校19期のテノール歌手、平良栄一(75)は台湾生まれ。敗戦で台湾を離れ、しばらく両親の出身地である宮古で暮らした後、現在のうるま市石川へ渡ってきた。

 「石川はアメリカの植民地のような感じだった」と平良は回想する。街中を練り歩くマリン兵の楽隊を追っかける音楽好きの少年だった。市内にあった球米文化会館で合唱に励んだ。石川高校では吹奏楽部に入部した。楽器はマリン兵のお下がりだった。

 宮森小ジェット機墜落事故が起きたのは中学2年の時。弟は体験者だ。「宮森小の事故もあり、戦後の荒れた状況の中で石川高校は情操教育に力を入れていた。音楽、演劇、スポーツが活発だった」
 琉球大学に1年通った後、武蔵野音大に進み、声楽家の道を歩んできた。「声が出る限り、歌いたい」と平良は語る。

照屋林賢氏

 照屋林賢(71)は定時制10期。77年、りんけんバンドを結成した。85年、オリオンビールのCM曲「ありがとう」がヒットし、その後も次々と話題作を発表した。映画「ティンクティンク」の監督、中学国語教科書に自作詞・曲の「春でぇむん」が採用されるなど多方面で活躍している。94年、沖縄音楽エンターテインメント事業を手掛けるアジマァを設立。2018年、沖縄の音楽文化を活用して誘客を図るリンケンズホテルを北谷町美浜にオープンした。

大川豊治氏

 石川を拠点に活動するタレント大川豊治(46)は48期。95年から2001年まで、りんけんバンドで活動した。現在、沖縄テレビの人気番組「アゲアゲめし」のリポーターとして県内を駆け回っている。

 小学校の頃からアナウンサーにあこがれ、高校在学時から県内の民放テレビ番組に出演した。大川の活動を周囲は温かく見守った。

 「石川は戦後の芸能発祥の地ということもあって、活動には寛大だった。同級生は普通に接してくれたし、先生も『大人の中で社会勉強をしなさい』と激励してくれた」と振り返る。

 「那覇に住んだら、もっと仕事が増える」と助言してくれる人もいるが、石川での暮らしにこだわる。りんけんバンドにいたころの照屋の言葉が心に残っている。

 「林賢さんは『ウチナーンチュは足元の宝に気付かない人が多い。足元の宝に気を付けて』と話してくれた。文化、歴史、芸能がウチナーの宝。石川で宝探しをやっていきたい」

 地域の集会場で市指定文化財でもある「石川部落事務所」に足を運び、先輩の話を聞く。小那覇舞天(本名・全孝)と照屋の父、照屋林助の漫談が戦火を生き延びた人々を慰めたという逸話も地域の宝だ。「この建物ができて80年余り。舞天先生もここで演目を披露したという。林助さんのことなど、いろんな話が聞けて楽しいし、勉強になる」と大川は笑顔を浮かべる。

 1年ほど闘牛の実況に携わった。今年5月に急逝した闘牛写真家の久高幸枝は高校の同期。「彼女にとって闘牛は生きる糧だった。闘牛愛はすごかった」

伊波大志氏(右)

 現在、闘牛実況アナウンサーとして活躍する伊波大志(36)は58期。実家は牛カラヤー(牛飼い)だ。新型コロナウイルスの影響で中断していた全島闘牛大会が11月に再開した時の盛況に驚いた。

 「前日夜から開場を待つ人がいる。50人くらいの小学生が朝6時から待っていた。この時代、子どもから年配の方まで夢中になれる文化は他にはない」

 高校2年の時、好きな音楽を校内放送で紹介したくて放送部に入った。音響操作やアナウンスも担当した。それが評判となった。「先生に『声がいい』と褒められ、声を使う仕事をやりたいと思うようになった」と伊波は振り返る。
 高校卒業後、福岡の専門学校でアナウンサーの技術を学んだ。帰郷後、ラジオのリポーターとして活動する中で、自分にしかできない仕事はないかと考える中で、ふと気付いた。「自分には闘牛がある」

 闘牛の実況を始めて10年。実況に加え、ネットでも情報を発信している。8年前、自身の結婚披露宴を闘牛場で開いたのも、もっと闘牛を知ってほしいという一心からだった。

 「女性のファン層を広げたい。闘牛場の周辺にカフェやフードコートを整備するなど施設の充実が必要だ。地域とのコラボも。闘牛は変わっていく。やるべきことは、もっとある」

 伊波は闘牛の、そして石川の未来を見つめている。 (本文敬称略)
(編集委員・小那覇安剛)
(次回は1月上旬掲載です)