32軍司令部の留守名簿 女性も徴用、雑用担う 多くは「戦死」と記載


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県出身者の女性の氏名では「筆生」や「雑仕」などとして徴用されていたとみられる。上には「戦前退職」と記された人もいるが、「戦死」した人もいた。

 第32軍司令部留守名簿の公開で、司令部構成の実態の一端が明らかとなり、県出身者の民間人が数多く徴用されていたことが分かった。県出身者278人のうち、最多は事務員を意味する「筆生(ひっせい)」で73人。次いで兵士が54人、「工員」が36人、「雇員・臨時雇員・嘱託」が34人、「傭人(ようにん)」が30人、「軍馬手」が16人、「雑仕・公仕」が14人、「打字手」が10人、「厨夫」が4人、「調教手」、「技手」がそれぞれ1人などと続いた。

 鉄血勤皇隊として動員された故大田昌秀元県知事は「二等兵」と記され、編入年月日は45年3月31日とあった。「傭人」や「雑仕」として軍の雑用を担っていたとみられる、県出身女性の名前も数多くあった。そのうち「依願退職」や「内地疎開」と記され、沖縄戦の前に部隊を離れたとみられる人もいたが、多くが「戦死」と記載されていた。

 名簿には牛島満軍司令官や長勇参謀長、八原博通高級参謀らの氏名もあった。 留守名簿に記載された兵士らの「前所属欄」の多くは、それまで中国に展開していた関東軍や西部軍、師団や旅団の名前が記されていた。32軍の創設と部隊の移動に伴い、編入されたとみられる。中国北部に展開していた日本軍の第24師団、第62師団、第28師団、旅団、歩兵連隊などのほか、本土の部隊の名前も確認できた。一方で、県出身者の多くは「前所属欄」に記載がなく、現地で徴用されたことも読み取れた。

  (中村万里子)