先人、師匠から今の若者へ 新世代へのけん引者 仲宗根創<新・島唄を歩く>


この記事を書いた人 Avatar photo 上里 あやめ

 1980年代後半、沖縄音楽に3度目のブームが起こった。90年代から2000年代初頭にその波はピークを迎えるのだが、まさにその潮流のただ中で生を受け、時代の流れと共に成長する歌手がいる。仲宗根創(はじめ)だ。往年の民謡ファンは孫を見守るような眼差(まなざ)し、若い世代は憧れの視線を向ける。彼に島唄を楽しませる技を与えたのは、もしかしたら時代かもしれない。

ライブで味わい深い歌三線を披露する仲宗根創=2018年、沖縄市のミュージックタウン音市場((C)K.KUNISHI)

 小浜 生年月日は?

 仲宗根 1988年2月28日。生まれは那覇で、小学3年の時にコザ(沖縄市)に来た。

 小浜 三線は祖父の影響ですか?

 仲宗根 元々おじいちゃんが習っていて、僕は3歳くらいから追っかけて一緒に研究所へ行った記憶があるんです。

 仲宗根創の祖父・盛光(82)は若い頃から三線に親しみ、夕食後に祖父の奏でる三線が創の子守歌であった。祖父が民謡研究所に通い始めると孫の創もついて行き、玄関で待っていたこともあったという。「民謡への興味はじいちゃんのおかげです」と創は言う。

 小浜 コザに移って来て三線は?

 仲宗根 近くで先生を探そうと、じいちゃんと民謡クラブを巡って、松田弘一先生の経営する民謡クラブ「島情話」で先生の三線聴いて、すぐ弟子入りをお願いした。

 小浜 同級生なんか三線してる人は?

 仲宗根 いません、隠してました。だけど、松田先生の勧めで、(照屋)りんけんさんがプロデュースしているアジマァレコードの「第一回民謡歌手オーディション」で優勝して、CDデビューしたので学校でも紹介されて、まあ照れながらやってました。
 

度肝を抜かれ

 沖縄には天才三線少年が時々出現するが、仲宗根創は別格の一人といえよう。西暦2000年、民謡ブーム真っただ中でのデビューCD「アッチャメー小」は衝撃的であったと記憶する。雑誌などにも取り上げられ、正月のテレビ番組にも出演した。民謡ファンはこの大型新人に大いに期待した。しばらくすると、彼は名人・登川誠仁の側にカバン持ち兼伴奏者として我々の前に登場した。それどころか、登川誠仁師とそっくりなタンメーグィ(年寄声)で歌うその姿に度肝を抜かれたものだった。

 

 小浜 松田弘一さんから登川誠仁さんへ師匠を変えてますが?

 

 仲宗根 ちょうどその頃、民謡会派の分裂問題があって、松田先生は琉球音楽協会へ移り、僕はじいちゃんと一緒に琉球民謡協会に残る事にしたんです。それで憧れていた登川先生の所へ。

 

 小浜 何歳の時?

 

 仲宗根 中学3年生。室川(沖縄市)の自宅に行って、門をたたいたのですが、「忙しい」と言ってなかなか首を縦に振ってくれなかったんです。
 

民謡への思いなどについてインタビューに答える仲宗根創=2020年12月、沖縄市の自宅((C)K.KUNISHI)

誠仁師に弟子入り

 

 実際、登川誠仁は映画の撮影などで忙しかったようである。その間、創はコザ中学を卒業してコザ高校へと進学した。学校の帰り道だったということもあって、毎日登川先生の自宅の前を通ってのぞいた。大体は留守で、見かけた時は外で掃除をしたり、庭の花木の手入れをしたりしていた。ある時、創が“Good morning″と言うと「今や昼やくとぅ”Good afternoon″どぅやんどー」と会話したことを今でも覚えているという。1年くらいかかってやっと「来い」の一言。高校1年の夏休みでした、と創は笑った。

 小浜 憧れの先生に弟子入りしていかがでした?

 仲宗根 僕としては早弾きを習いたいんですけど、教えてくれない。八重山民謡ばかり。最初はよく分からなかったけど、だんだん面白くなり、琉球民謡の奥深さというか。

 小浜 先生はよく人を試すらしいからね。

 仲宗根 庭のプランターの植え替えをして「歌と三線だけではダメで土の温度も感じなさい」とよく手伝わされた。
 

全てウチナーグチ

 

 弟子入りが許されると、稽古は厳しく、学校帰りの夕方にセッティングされ、ほとんど毎日であった。日曜日も稽古と告げられると、弟子の方から「日曜くらい休みにしてください」と言わせるほど熱心であった。ただ、先生はいったん酒が入ると、とことん飲むところがあり、そうなると1カ月2カ月休みという時期もあった。それでも創には毎日が楽しくてしょうがなかった。稽古中の会話も全てウチナーグチであったというから、今の時代ではなかなか体験できない稽古風景であったといえよう。

 小浜 登川先生のところを出て一人立ち?

 仲宗根 10年お世話になったんですけど。僕も辛かった。不義理なやり方かも知れなかったけど、自分を試したかった。それでもヤマト公演にはお供させて下さったし、亡くなる2日前にも会うと冗談言ってました。

 小浜 今、若手を引っ張って行く位置にいると思うが?

 仲宗根 ネットやスマホで拡散されて、三線格好いいという若い人が増えている。そういう人達に民謡の良さをもっと伝えていきたい。まずは、生活の中で、暮らしの中で生まれる沖縄の「うた」を宮古・八重山も含めて、そこからにじみ出る「沖縄」をもっと勉強していきたいです。

 (小浜司・島唄解説人)


民謡名人による夢の競演

 多幸山(登川誠仁アルバム「美ら弾き」より)
歌三線・登川誠仁、返し・嘉手苅林昌

 

多幸山(たこうやま)の山猪驚(やまししうどぅる)くな
喜納(ちな)ぬ高波平(たかはんじゃ)
サーヨー山田戻(やまだむどぅ)い
汝達山田(いったやまだ)や 何(ぬう)さる山田(やまだ)が
我(わ)んね久良波(くらふぁ)や 行(ん)じ見(ん)んちゃせ 行じ見んちゃせ
[返し]上道踏(うぃみちく)ん切(ち)ち 下道通(しちゃみちとぅ)りば ちんとまぐら 行逢(いちゃ)いらど 行逢(いちゃ)いらど
 中略(ここから掛け合い)
誠仁 土塊小投(ぶくぐわーな)ぎりば
 出(い)じゆる忌(ゆ)む顔(じら)
 誰(たー)が投(な)ぎてぃん
 出(い)じゆがや
林昌 誰(たー)が投(な)ぎてぃん
 出(い)じゆる忌(ゆ)む顔(じら)
 括(く)んち下(さ)ぎてぃどぅ
 寝(に)んだりる
 後略

~~肝誇(ちむぶく)いうた~~

 仲宗根創がほんの5歳で衝撃を受けた節が登川誠仁と嘉手苅林昌が掛け合いで歌う「多幸山」というから恐ろしい。登川誠仁のCD「美ら弾き」(ビクター)の一番最初の曲。ルポライター竹中労が1975年にプロデュースし、1991年復刻されたCD。91年といえば竹中が他界した年で、氏は琉球民謡ブームを見越し、70年代に自ら企画したレコードの音源を6枚シリーズのCDに復刻した。筆者もその編集に加えさせていただいたことは貴重な経験であった。

 多幸山の山猪(山賊=フェーレー)よ、退け退け、喜納の大男波平様のお通りだ、と始まるカチャーシー曲「多幸山」。古典音楽の「早作田」を速弾きにしたものといわれ、かつては「早作田小」とも称したという。「早作田」は琉球音楽の元祖・湛水親方の作で、原曲との関係を論じる紙数はないが、登川と嘉手苅の掛け合いの中にもその足跡がうかがえるところがある。ともあれ、2人の民謡名人の歌喧嘩(掛け合い)を、即興で、ときに猥雑(わいざつ)な冗談と洒落(しゃれ)を交えながらも、正確なリズムと美しい三線の音色で奏でる、まさに絶品中の絶品。