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菅政権のメディア戦略 担当記者中心に支配関係、「官製報道」まん延を危惧<メディア時評>


この記事を書いた人 Avatar photo 嶋野 雅明

 7日、首都圏では新型コロナウイルス感染症に係る2度目の緊急事態宣言が発令された。解除されて以来わずか半年余だが、その時との違いは、発令主体である政権が代わっていることだ。

 安倍政権との違い

 安倍政権のメディア戦略の特徴は、「隠す・誤魔化(ごまか)す」ことによって対話を成立させず、結果として「異論を排す」ことにあった。それに対し現政権の特徴は、目指す結果は同じであるものの、より強硬的に「抑え込む」傾向が強い。それは、ポピュリズムといってもよかろう、万人受けする政策(携帯電話料金値下げなど)による印象操作とセットであることで、強面(こわもて)が隠されることによって成立していよう。

 日本学術会議も年を越えてすっかり社会の話題から消えてしまった感があるが、ここでも官邸主導の議題設定が功を奏している。本来の「学問の自由」からの、巧妙に土俵を変更することに成功したからだ。「学術会議自体が怪しい団体」「国民に選ばれた首相の任命を否定する学者は特権階級」といった、一般市民が受け入れやすい既得権益批判という、具体的なマイナスイメージが、あっという間に浸透した。

 しかもそうした言説はネットを通じて広がってはいるが、強く後押ししているのは紛れもなく新聞やテレビの報道でもある。こうしたマスメディアに対しても、政権の肝である「人による支配」の徹底が見て取れる。前政権は意図的に、「親と反」のメディアに二分し、社会の分断化によって政権の安定を図った。これに対し現政権は、表面上はそうした峻別(しゅんべつ)を行わず、広くメディア全体に網をかける戦略だ。身近な担当記者を中心に支配関係を作ることで、全体を「スガノメディア」化するということでもある。

 そうした「取り込み」は就任直後の人事から現れていた。10月人事で、首相補佐官に現職記者を当てたことだ。同郷の柿崎明二・共同通信論説副委員長を任命したが、国会議員を経ず報道機関出身者が首相補佐官に就任したのは初で、社退職は前日付という慌ただしさだった。しかも、一般的評判としては政権に厳しいとされた人物を身内に取り込んだことになる。

 官邸の「成功体験」

 そして政権始動間もない10月3日、学術会議問題が炎上している最中に、番記者と呼ばれる首相担当記者が、原宿で首相を囲んでのパンケーキ茶話会を行った(朝日、東京、京都の各新聞は欠席したと伝えられている)。その直後に実施されたのが、談合の結果としか見えないような「インタビュー」だ。特定記者との質疑応答に、他の内閣記者会常駐19社が「同席」を許された奇妙な形態である。同席社は質問は許されていないにもかかわらず、インタビュー記事として紙面化したり、テレビ放送したりしている(TBSが全映像を公開)。

 このグループインタビュー形式は、過去にもとられていたものではある。希望社が複数あった場合、まとめて実施するということで、今回も10月5日(読売、北海道、日経)と9日(朝日、毎日、時事)に約30分ずつ行われた。確かに、通常の会見は1社1回1問という厳しい制約がある中、この方式だと繰り返し質問ができるメリットもあるし、うまく活用すれば追及も可能だ。実際、努力の跡が多少は伝わった面もある。

 しかし全体としては、首相の発言や回答の齟齬(そご)を突いたりするものではなかった。記者会見を開いていないという批判に応えるため、官邸側と折り合いをつけた結果であろうが、こうした機会を逆利用できず、説明の場に終わらせてしまった感は拭えない。今回は公開されたものの、通常は非公開でこっそり行う懇談が、「正式な記録も残らず癒着の温床」という批判を超えることは生易しいものではない。

 そしてこの官邸にとっての「成功体験」が、10月13日の内閣記者会(各社キャップは出席、数社が欠席)との懇談を実現させたともいえる。いわば、オープンな場ではなく「身内」のみの意見交換会というわけだ。これは先のパンケーキ懇談や、昨今、批判の対象となっている「有名人」との連夜の会食と変わらないということになる。

 確かにこういった場を通じての「信頼関係」の構築によって、他社よりわずかに早い時間差報道が生まれることもあろう。例えば今回の緊急事態宣言においても、「発出を検討」「週内にも」「土曜午前0時から」と、立て続けに速報が流れた。しかし結果としてその直後の4日首相会見では、「検討します」の回答しか得られていない。これでは結果として、情報を小出しにしての観測気球的なリークに乗っかった報道だったということにならないか。

 宣言下の取材・報道

 この種の報道が、とりわけいま危惧(きぐ)されるのは、まさに緊急事態宣言中だからだ。緊急事態下では、移動・集会の自由が制限され、市民生活に大きな影響が出るほか、取材や報道も大きな制約を受けることになる。正しい必要な情報が迅速に読者・市民に届きづらくなり、知る権利が大きな制約を受けることになるわけだ。

 さらにコロナ特措法の定めに従って、首相や知事からの「指示」によって、テレビ・ラジオは具体的な報道内容についても、政府の意向を反映させる必要が出てくる(現時点ではNHKのみが対象だが、民放や新聞も政令ですぐ指定公共機関になりうる)。

 通常から実施していることではあるが、政府や自民党はテレビの報道内容を詳細にモニタリングしている。そして昨春には、テレビ朝日やTBSの個別番組内のコメント内容に対し、政府の公式Twitterアカウントで批判したり抗議したりするという事態があった。これが、抗議ではなく指示になることの意味は大きい。

 影響は、残念ながら受け入れる素地ができあがっているNHKから現れると思われるが、当然、全国ネットワークを組んでいる沖縄の民放局も、東京発の情報の蛇口が閉まるわけで、情報のコントロールが進む可能性は否定できない。さらに県内に宣言が出されれば、「総合調整」という名での様々な要請や、物資・人材の「応援」も求められることになる。例えば、知事室から地元局の技術スタッフが知事メッセージを伝えることや、いつも画面で見ているアナウンサーが、県の広報を読み上げることも現実としてありうるということだ。

 さらにこうした義務的ではあるが強制力を有しない要請が、もし取り込まれた報道機関になされたならば、それは法的強制以上の強力な忖度(そんたく)によって、官製報道が蔓延(まんえん)することにならないかと強く危惧(きぐ)する。
  (専修大学教授・言論法)
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 本連載の過去記事は本紙ウェブサイトのほか、『見張塔からずっと』と新刊『愚かな風』(いずれも田畑書店)でも読めます。