「いつか漏れるかも」…毒ガスに不安と怒り 撤去見届け夢中で撮影<見えぬ恐怖今も 毒ガス搬送50年>


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現在は米軍基地内にある先祖からの土地を背に、毒ガス移送当時を振り返る島袋善祐さん=8日、沖縄市

 住民のほとんどが避難した美里村(現沖縄市)の幹線道路は、異様な静けさが漂っていた。「POISON 毒性物」と掲示された米軍車が現れると、夢中でシャッターを切った。1971年1月13日。米軍が毒ガス兵器を撤去するための第1次移送があった。島袋善祐さん(84)=沖縄市=は報道陣に紛れ、カメラを構えて毒ガス兵器を運ぶトラックを待っていた。

 目に見えない毒ガスの恐怖に息をのんだ。一方、身勝手に基地を使用してきた米軍に住民が抵抗し、毒ガスの撤去を実現できたという達成感も湧いた。「1人の声は小さいが、1が集まれば100になる」

 家族は北中城村熱田に避難したが、島袋さんは「住民の力で撤去させた移送を見届けたい」と思い、美里村に戻った。米軍の作業員がトラックを覆う布をめくった際に見えた毒ガス兵器が、今でも目に焼き付いている。

 69年、毒ガス漏れ事故の報道をきっかけに、知花弾薬庫での毒ガス貯蔵が発覚した。姉は弾薬庫で書記として働いていた。「いつか毒ガスが漏れるかもしれない」と不安が募った。「基地には人を殺す爆弾だけでなく、毒ガスもあった」。住民の安全を顧みない米軍に腹立たしさを覚え、毒ガスの即時撤去を求める運動に身を投じた。

 71年7~9月の第2次移送を経て、毒ガス兵器は米領ジョンストン島に全量が移送された。しかし、復帰後も基地が横たわる。

 嘉手納基地周辺の河川からは、発がん性のリスクが指摘される有機フッ素化合物(PFOS・PFOA)が検出された。高濃度の数値が検出されて以降も、日米地位協定に基づく施設の排他的管理権を持つ米軍は、基地内の立ち入り調査を認めていない。

 島袋さんは、嘉手納基地周辺の河川から取水する北谷浄水場の供給地域に暮らす。「米軍は沖縄の豊かな土地を奪った上に、汚染し続けている」。毒ガス移送があった当時と変わらない状況に憤りを感じる。「今の状態を許してはいけない。毒ガス撤去を実現したあの時のように、声を上げ続けるべきだ」と力を込めた。
 (下地美夏子)


 1971年1月13日に始まった第1次毒ガス移送(レッドハット作戦)から50年を迎える。毒ガス移送を目撃した人々の証言などから当時を振り返り、現在も続く基地問題との共通点を浮かび上がらせる。