避難強いられ生活は混乱 「米軍優先」今も振り回される日常<見えぬ恐怖今も 毒ガス搬送50年>


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50年前に毒ガスが移送された天願桟橋(手前)と昆布集落(奥)=6日、うるま市

 不安げな表情の子どもや主婦、お年寄りなどが、バスで避難するため具志川市(現うるま市)の昆布公民館に詰め掛けた。集落から目と鼻の先にある米軍の天願桟橋には、毒ガスが入った兵器が運ばれることになっていた。避難を強いられた住民は怒りやいら立ちを覚え、毒ガスの恐怖を身近に感じて緊張の日々を過ごした。避難から50年たった現在も、米軍に日常生活を振り回される状況は変わらない。

毒ガス移送のため避難する住民=1971年、具志川市(現うるま市)昆布(国吉和夫氏撮影)

 約1万3千トンの毒ガスは、1971年1月13日から9月9日までに、知花弾薬庫から天願桟橋へ移され、船で米領ジョンストン島へ送られた。毒ガス移送に伴い周辺の具志川、石川、美里の3市村の住民5千人以上が避難した。昆布の住民は農業などを中断することになった。学校は休校となり、子どもの学力低下が懸念された。毒ガス騒ぎで未熟児が生まれることもあったという。

 桟橋では同年8月、船への積み込み作業中に毒ガスロケット弾が落下する事故があった。ガス漏れはなかったが、米兵は防毒マスクを着けて逃げ出し、住民や警備中の警察官を震え上がらせた。

 昆布に住む名嘉山英子さん(78)は当時、幼い子どもをおんぶして避難所へ向かった。祖父母や子どもら10人前後の大所帯で、金武村(現金武町)や具志川公民館に身を寄せた。「避難生活は長く大変だった」と振り返る。米軍基地の警備員だった夫の兼順さん(82)も仕事先で「移送が無事に終わることを願っていた」。

 同じく昆布に住む名嘉山兼正さん(79)は、移送最中の7月末に次男が生まれた。会社員だった兼正さんは仕事で避難はしなかったが、妻と子どもたちは次男が生まれた病院で過ごしたという。兼正さんは、自宅近くにある米軍の貯油タンクの存在がいつも気掛かりだった。

 昆布には桟橋のほか、キャンプ・コートニーや陸軍貯油施設がある。復帰前は土地接収への闘争や、隣接地域へのジェット機墜落もあった。復帰後も基地から流れた油や汚水が天願川を汚染し、嘉手納基地を離着陸するF15戦闘機が上空を飛び続ける。米軍の活動を規制できない日米地位協定の問題が横たわり、住民生活より米軍の訓練が優先される事態が半世紀も続く。

 名嘉山英子さんは「いつ何が起きるか分からないけども、いつでも平和でいたいよね」と語る。生活を振り回す米軍と隣り合わせの生活は、毒ガス移送の当時と同じだ。住民らは安全安心な日々が訪れることを願い続けている。

(金良孝矢)