清掃担う場所に隠されていた「毒ガス」 基地従業員たちが見た50年前の闘い


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知花弾薬庫で働いていた基地従業員の様子などを語る、当時の全軍労書記長の友寄信助さん=8日、宜野湾市

 1969年に知花弾薬庫(現在の嘉手納弾薬庫)内の毒ガス貯蔵が発覚する以前から、当時の全沖縄軍労働組合(全軍労)には、知花弾薬庫勤務の従業員から異変を知らせる情報が届いていた。全軍労の書記長を務めていた友寄信助さん(87)=宜野湾市=によると、従業員らが「危険物が漏れた気配があったようで、米兵が突然走って逃げ出した。私たちもよく分からないまま慌てて逃げた」と証言していたという。毒ガスの存在が発覚すると、従業員からは「やっぱりあったのか」との声が上がった。

 1968年7月には、具志川の海岸で海水浴中の開南小学校(那覇市)の児童約230人と教職員約10人に皮膚炎の症状が現れ、米軍施設からの薬品流出が強く疑われた。

 「今もそうだが、当時は弾薬庫の中に何があるか全く分からない状態だった。だが、全軍労では何かがあることは間違いないとみていた」と友寄さん。従業員らは何も知らされないまま、弾薬の清掃作業を担わされていた。「すぐ横に何かがあるという不安を抱えながらも、生活が懸かっているので働かないわけにはいかなかった」。友寄さんは基地従業員が置かれていた厳しい状況を思い出す。

 69年7月18日、猛毒のVXガスが漏出した事故で、弾薬庫内にVXガスやサリン、マスタードガスなどが貯蔵されていることが明るみに出た。発覚から11日後の29日に開催された、毒ガス撤去を求める県民大会に全軍労は参加した。空軍支部が中心となって、安全管理や基地労働者の健康対策を米側に申し入れた。米側からは承諾の回答を受けたが、防護服などの支給もなく「お粗末なもので特に変化はなかった」。

 撤去のため毒ガス兵器が移送された後は「多少の安堵(あんど)」が得られた。しかし、不安は完全にはなくならなかった。「本当に解決したとは思えない。弾薬庫は以前と変わらず、そこにあるのだから」。毒ガス移送から50年。「辺野古の基地問題にしても、米軍の傲慢(ごうまん)さは変わらない。むしろ、さらに強くなっている」と唇をかむ。それでも、県民が粘り強く訴え続けることの大切さを強調する。「(毒ガスの)移送も闘い続けた大きな成果だと思うから」

(新垣若菜)