集落内の移送が最短経路… 早期撤去へ葛藤と不安 住民「従うしかなかった」<見えぬ恐怖今も 毒ガス搬送50年>


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「住民はどんな移送経路でも受け入れざるを得なかった」と語る宮里政秀さん=7日、うるま市石川東恩納の美原公民館

 元石川市職員の宮里政秀さん(81)=うるま市=は50年前の1月13日、知花弾薬庫から天願桟橋に向かう毒ガス兵器を載せた米軍の車列を間近で見ていた。監視地点に設置されたテントに他の職員らと詰めていた。やがて十数台が目の前を通過した。「住民はどんな移送経路でも受け入れざるを得なかった」。宮里さんが振り返った。

 移送前、市職員ら向けの説明会があった。県や米軍の担当者が移送計画を説明した。詳細が不明な点も多く、参加者の恐怖が薄れることはなかった。安心させようとしたのか、米軍の担当者はこう続けた。「臆病にならなくていい。プロパンガスを運ぶのとあまり変わらない」

 参加者が反論した。「毒ガスとプロパンガスを比較するのはおかしい。ばかにしているのか」。多くの人が不安のまなざしを向けていた。米軍や琉球政府の説明によると、池原や東恩納を通り、天願桟橋まで移送する経路は既に決まっており、覆しようがなかった。

 天願桟橋は具志川市(現うるま市)昆布にあり、宮里さんの自宅がある石川市東恩納の美原地区に隣接している。「日本復帰前の当時、沖縄は米軍のなすがままにされていた。情報がほとんどない時代だ。弾薬庫内で何が起きていたのか、毒ガスはどんなものなのか分からないことが多かった」

 弾薬庫から桟橋までの最短の道のりでは、必ず美原を通過しなければならなかった。別の経路案は遠回りで避難人数も増える。「1日も早く、速やかな撤去を」「もしも移送途中で毒ガスが漏れたら」。宮里さんら住民は葛藤した末、美原を通る案を受け入れるほかなかった。

 移送作業中、住民は安全地帯までの避難を余儀なくされた。同年7月の2次移送では、早朝に家を離れ、その日の移送作業が終わる夕方ごろに帰宅するという生活が約1カ月続き、その負担で身も心も疲れた。

 住民を恐怖にさらした毒ガス移送から13日で50年。「美原という地域は沖縄が置かれている状況を表している。空では今も米軍の戦闘機が爆音をまき散らし、海では天願桟橋に接岸する米軍艦は何を積んでいるのか不明のままだ。われわれにはどうしようもない」。宮里さんがため息交じりにつぶやいた。

(砂川博範)