基地従業員「ウサギやヤギと同じだった」毒ガス防護具なく勤務 「解雇の恐怖」50年前を振り返る


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 【中部】最も内側には木箱に入れられたウサギがいた。ヤギも放牧で飼育されていた。いずれも毒ガスが漏れ出した時の検知のためだと思った。貯蔵庫は二重のバリケードフェンスに囲まれていた。知花弾薬庫(現在の嘉手納弾薬庫)内に貯蔵されていた毒ガス兵器の移送から13日で50年。同弾薬庫で勤務していた新垣昇さん(82)=読谷村=は、はっきりと覚えている。「その周りには300人の基地従業員が働いていた。今思えば、私たちはまるで米軍のウサギやヤギと同じだったんだ」。怒りを抑えるように静かに語った。

50年前にあった毒ガス移送を振り返る新垣昇さん=12日、読谷村長浜

 1963年から弾薬庫に勤めた。フォークリフトや基地司令官専属の運転手を経て、基地従業員らの配置などを任される現場監督になった。69年、弾薬庫内の毒ガス貯蔵が米紙報道で発覚した。新垣さんによると、それ以前から現場の従業員は毒ガスの存在を知っていたという。「種類などの細かいことは分からないが、何を今更というのが正直な気持ちだった」と当時を振り返った。毒物の英字「POISON」の表記を掲げた米軍車が貯蔵庫を行き来するのを何度も目撃した。

 貯蔵庫配属の米兵は顔を全部覆えるマスクを常に腰元につり下げていたが、基地従業員には支給されていなかった。毒ガス兵器の発覚後、全沖縄軍労働組合(全軍労)が基地従業員の安全を求めて米軍に申し入れをしたが、結局配給はなかった。それでも新垣さんは冷めた感情だった。「毒ガスがあることに慣れていることもあった。きっと大したことはないんだろうと」

 撤去されるまでの2年2カ月の間、日米両政府間で沖縄返還交渉が進んだ。復帰を控えた70年、米軍は労働者の大量解雇を通告した。「生活できなくなるという恐怖が勝り、毒ガスよりも、従業員らにとって、当時はそっちの問題の方が大きかった」

 新垣さんは半世紀を振り返り、改めて恐怖や怒りを感じている。今、弾薬庫には何が貯蔵されているのか。軍事機密という名の壁が現在も暮らしを脅かし、日本政府もその状況に加担していると訴える。「弾薬庫内に化学兵器がないと明言できない状態が今も続いている。毒ガス移送を、過去のものにしてはいけない」

(新垣若菜)