生存権すら顧慮されず 米軍次第の「空虚感」今も 寄稿・吉岡攻<隣り合わせの危険ー毒ガス移送50年>


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 米軍知花弾薬庫(旧美里村)に貯蔵されていた毒ガス兵器の移送、撤去が米統治下の1971年に行われてから50年。当時、沖縄の住民は毒ガス兵器の危険と隣り合わせの生活を余儀なくされた。日米や琉球政府の思惑、沖縄に毒ガス兵器が配備された背景など当時の状況を踏まえ、在沖米軍基地が集中している中で今も住民生活を脅かす危険が続いていることについて、ジャーナリストや識者に寄稿してもらった。


 二葉の写真を机に並べてみる。一葉は車道の中央を複数の米軍車両が走っている。バンパーには和英両文字で「EXPLOSIVES爆発物」「POISON毒性物」と大書された板が取り付けられている。路上に人は誰もいない。それが一層の不気味さを漂わせている。もう一葉は不安げな表情がそのまま見て取れる6人の写真だ。赤子をおぶった母親とその前でじっとたたずむ幼子、そして、手前にはうつむく母子2人がいる。さらに目を凝らすと、6人の目線はそれぞれ別々の方向を向いていて、どの目線も空を彷徨(さまよ)っている。

 この二葉は米軍支配への憤怒が爆発したコザ暴動から3週間ほどが過ぎた1971年のちょうど今日、1月13日の朝に撮影したもので、1万3千トンにも上る毒ガス兵器のうち150トンの島外移送作業が始まった日の記録だ。弾薬庫から移送船が停泊する天願桟橋までの11キロは厳戒下に置かれ、5千人の沿道住民たちは、毒ガスという新たな恐怖から逃れようと、取るものも取りあえず避難先に駆け込んだ。

毒ガス兵器の移送に伴い、避難を余儀なくされた住民ら=1971年1月13日、美里村(現・沖縄市)登川(筆者提供)
米軍知花弾薬庫に貯蔵されていた毒ガス兵器を移送するトラックの列=1971年1月13日、美里村(現・沖縄市、筆者提供)

謝罪も配慮もなく

 基地の島を余儀なくされてきた沖縄で、住民が常に背負わされてきた宿命は米軍基地を発生源とする事件や事故、「できごと」の多くが極秘裏、秘密裏、そして発覚しても捜査やその詳細は伏せられたままという、いわば生命や安全という基本的な生存権すら顧慮されずに日々が通り過ぎていくという現実だ。毒ガス兵器も、前年の7月に弾薬庫で起きた事故を米紙が報じるまでの7年間、その存在すら極秘とされてきた。避難住民たちの間には日常生活までもが米軍次第という言葉にもならない「空虚感」が漂っていた。

 思い返すまでもなく50年前の沖縄では、命の危機に直結する毒ガス兵器への憤まんやる方ない感情と、それだけに安全な撤去を要求する抗議大会が何度も開かれていた。そこに、糸満で起きた主婦れき殺事件の無罪判決も重なって、コザ暴動という未曽有の事態が起きたばかりだった。

 高等弁務官のランパートは、暴動の一端には毒ガス兵器への怒りもあったとして「化学兵器の積み出しを遅延させる唯一のものは撤去作業に対する妨害の可能性だ。この脅威がなくならない限り、私は作業の開始を承認しない」と脅したあげくに始まった移送だった。

 統治者の言葉には極秘で持ち込んだことへの謝罪も、毒ガス漏れ事故を起こしたことへの反省も、移送の安全性に危機を抱く住民に対する配慮もない。それどころか、撤去は事故が発覚してしまったからだといわんばかりの居丈高さだった。「空虚感」とは普通の人々には全く通じない統治者が発するこのような言葉への絶望でもある。

絶望に駆られ避難

 これは対米軍のみの話ではない。毒ガス兵器の移送を前にして琉球政府対策本部の代表団は防衛庁(当時)に赴いた。コザ暴動から5日、真っ赤に燃える炎の生々しさがいまだ脳裏に焼き付いているときのことだ。そのこともあってか、代表団は「毒ガス撤去に関する米側の説明では安心できない。日本政府の意見を承知致したい」と上京の理由をことさらに述べている。しかし、同席した防衛庁の役人は「米側の安全対策は信頼性が高い」と評価し、「万一、事故が起きても適切な措置が取れれば十分」と答える。上京団が「糸満事件をみても米側が住民感情を理解しているとは考えにくい。住民に毒ガスマスクの支給は必要ないか」と米側への不信感をなおもあらわにさせても「その必要性は極めて乏しい」と答える。ついには「どうか自分が沖縄住民だと想定して回答してほしい」と懇願するも、「正式に回答する立場にはない」とにべもない(当時の「議事録」から抜粋)。

 50年前の沖縄を思えば、日本復帰を切望していた琉球政府が米軍よりも祖国の政府を信じたのも無理はない。だが、その政府も恃(たの)むに足らずと知ったのも同時だったに違いない。果たして住民説明会で矢面に立たされたのは琉球政府だった。「毒ガス事故は現に起きた、移送は絶対安全と言い切れるのか?」。沿道住民からの切実な問いに「総合的に判断した結果だ。事前の避難は考えていない。万一の場合でもパッと避難するだけの余裕はある」と、火に油を注ぐことになるのも覚悟の上で、防衛庁役人の答えを受け売りするしかなかったのだ。選択を任された住民たちは「命を守ろうにも沖縄には逃げ道がない」と絶望に駆られながら避難先に駆け込んだのだった。

問われる日本政府

 それから50年。念願だった復帰はしたものの、基地は依然としてあり、あのとき、沖縄住民の立場に立って答えてほしいと懇願した代表団に、「回答する立場にない」と答えた防衛省が、いまは米軍に代わって新たな基地建設を「粛々」と進める。あらためて写真に立ち返ってみれば、不気味さをまき散らしながら走行する米軍車両を背に、沖縄の中を右往左往するしかなかった住民たちが見せた空を彷徨(さまよ)う表情が理解できない限り、その「空虚感」に気づくこともない。問われているのは米軍だけではない。日本政府も、なのである。


【用語】毒ガス移送 1969年7月18日付の米紙ウォールストリート・ジャーナルによる毒ガス漏れ事故の報道を機に、美里村(現沖縄市)の米軍知花弾薬庫に約1万3千トンの毒ガス兵器が貯蔵されていたことが発覚。その後、毒ガス撤去を求める運動が展開された。毒ガスは2回に分けて撤去され、1次移送が71年1月13日、2次が7月15日~9月9日。具志川市(現うるま市)の天願桟橋までの移送ルート沿線の住民多数が避難させられ、生活に大きな影響が出た。VXガス、サリン、マスタードガスの3種の毒ガスは、太平洋の米領ジョンストン島に運ばれ処理された。

 


 吉岡攻 よしおか・こう 1944年、長野県生まれ。ジャーナリスト、テレビ番組プロデューサー・ディレクター。東京写真(現工芸)大学卒業後、フォトジャーナリストとして68~72年、沖縄に在住。71年、『沖縄69―70』で平凡社の「太陽賞・準太陽賞」を受賞。著書に『微笑と虐待』『いくさ世・沖縄』など多数。テレビドキュメンタリーも『沖縄が燃えた夜~コザ暴動50年後の告白~』(NHK ETV特集)など多数。