<未来に伝える沖縄戦>学習奪われ軍作業 上原はつ子さん


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 那覇市前島出身の上原(旧姓宮里)はつ子さん(92)=同市天久=は私立昭和高等女学校3年の頃、沖縄戦を経験しました。米軍上陸後、家族8人で中城周辺をさまよった末、米兵に捕まりました。上原さんの話を那覇市立那覇中学校3年の久貝美陽さん(15)と上江洲かほ子さん(15)が聞きました。

10・10空襲や沖縄戦時下の様子を語る上原はつ子さん=2020年12月12日、那覇市泉崎の琉球新報社

 《上原さんが通っていた昭和高女はタイプライターや簿記、そろばんなどの実務的な教科を学べました。父・勝栄さんのすすめで入学しました》

 昭和高女の卒業生でもある近所のお姉さんが郵便局の事務員をしていました。紫色やえび茶のはかまを身にまとい、きれいな格好をしていたのがとても印象的でした。父はその様子を見て、将来は事務員が望ましいと考え、昭和高女への入学を勧めたと思います。

 学校には大きな和文タイプライターがありました。「4年生になったらこれを使って勉強できるのかな」と期待していましたが、触ることができないまま戦争になってしまいました。

 《徐々に戦争の足音が聞こえ始めます。1944年ごろ、上原さんは「戦争が近づいていると実感していた」と言います》

 44年の新学期ごろから、まともに勉強をした記憶がありません。校舎は兵隊の宿舎などに利用されるようになりました。私は天久にあった高射砲陣地の構築を手伝いました。手作業で土の運搬作業をずっとしていました。帰り道で、友人と軍歌を歌っていたことを覚えています。
 学習のための授業はなく、当時は軍の手伝いをするのが当たり前でした。授業の一環でしたが、「国のため、天皇のために、やらなくてはいけない」と真剣に思っていました。

 《44年10月10日、米軍機が那覇の街を襲います。上原さんは学校の人と近くの壕に避難しました。中城城跡近くの荻道集落(現・北中城村)には父・勝栄さんが所有する家があり、そこに避難するため母・カナさんは上原さんを連れて行こうとしましたが、上原さんは少しためらいました》

 母は私を見つけると、手を取って引っ張りました。私は「行くのなら学校の先生に断ってくる」と言いましたが、母は「こんなもん断わらんでいい」と返しました。先生に事情を伝えるよう、一緒の壕にいた人たちにお願いして移動しました。戦後、先生に再会して「逃げてしまって申し訳ないです」と謝りました。先生は「元気で良かったね」と許してくれました。

 那覇を出て、父と待ち合わせをした普天満宮に着いた頃、日が暮れてしまいました。父と再会した時、ほっとして涙が出ました。

※続きは1月13日付紙面をご覧ください。