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コザ高校(1)創立時は「胡差高校」 生徒でコメ作り学校の資金に<セピア色の春ー高校人国記>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
戦後2番目の高校として生まれたコザ高校

 敗戦後初の高校として創設された石川高校に続き、コザ高校が1945年10月7日、室川初等学校(コザ第二小学校)に併置する形で発足した。室川初等学校は、キャンプ・コザに収容された子供たちが学ぶ場として置かれた小学校の一つ。コザ高校は翌年3月、現在地に移る。創立当時は「胡差高等学校」という漢字の表記が使われていた。

 沖教組中頭支部委員長や中部地区労議長を歴任し、反戦・平和運動を牽引した有銘政夫(89)は5期。46年に入学し、50年に卒業した。6・3・3制移行で2年生を2度履修した。4年間、高校を通ったことになる。

 「入学した時は漢字の胡差高校。2年生が終わった後、新2年生と言っていた。卒業時はコザ高校だった」と有銘は語る。手元に残る卒業証書には「コザ高等学校」と記してある。

 有銘政夫(89)は1931年、サイパンで生まれ、44年6月に始まった地上戦に巻き込まれた。46年に帰郷。海外引き揚げ者らを収容する「インヌミ収容所」を経て、安慶田で暮らし、コザ高校へ入学した。越来村森根にあった実家の土地は嘉手納基地にのみ込まれたままだ。

 米軍払い下げのコンセット兵舎が校舎だった。台風でトタンの屋根が飛ばされたことがあった。それでも近隣の米軍基地から飛んできた別のトタンで校舎を修復した。台風の後、生徒はハンマーを持参した。

 高校の周辺には田んぼがあった。「生徒で米を作ったよ。それを売って学校の資金にしたんだ」と有銘は振り返る。

 教科書はなく、ガリ版刷りのプリントで授業を受けた。日本は新憲法で軍国主義を否定していることを教師は明確に教えてくれたという。「ところが沖縄は全て軍の命令で動いていた。行政も軍の指揮下にあった」

 高校卒業後、有銘は青年団活動に力を注ぎ、米軍による新規接収反対など4原則の貫徹を掲げて闘う「島ぐるみ闘争」に奔走した。

 「軍作業員が青年団の中心だった。基地の中で『三等国民』として扱われ、一番差別を感じていた。青年団の中で軍作業員はウチナーンチュの誇りを回復したんだ」

 元沖縄タイムス会長でジャーナリストの新川明(89)も5期。31年、北谷村で生まれ、少年期を石垣で過ごした。46年4月、母やきょうだいと共に石垣から船に乗って現在のホワイトビーチ付近に上陸し、有銘と同様、米軍のトラックでインヌミ収容所に運ばれた。

 石垣を離れる前、二度目の受験で県立八重山中学校に合格しており、コザ高校に編入することができた。「高校時代は書物がほとんどなかったが、文学が好きで自己流の短歌を作っていた」と語る。

 コザ高校創立20年記念誌に寄せた回想記で新川は「希望も夢もなく、まさしくすべての人たちは『ゼロの時代』を生きていたのがその時代だった」と在学時を振り返っている。しかし、敗戦後の虚脱感に打ちひしがれていたわけではなかったという。

1947年7月の朝礼風景。下駄履きの生徒もいる(コザ高校50周年記念誌)

 「むしろ開放感があった。戦前、戦中の軍国主義から生き残ったという感じを持っていた。僕は沖縄戦のすさまじい体験はないが、石垣では軍の強制でマラリア地帯に押し込められ、苦しい思いをした」

 新川は一度目の八重山中受験で不合格となった。体調が悪く、体力テストをパスしたことが影響した。「軍事色が濃厚な時代で、学科より体力を重視していたためだろう。不合格となり、2年ほど家にいた」と新川。八重山中に入学していた2歳上の兄や同級生は鉄血勤皇隊に動員された。

 敗戦によって軍国主義のくびきから脱し、コザ高で開放感に触れた新川は1950年、琉球大学に入学。「琉大文学」などで文学・評論活動を展開していく。

 新川は一度目の八重山中受験で不合格となった。体調が悪く、体力テストをパスしたことが影響した。「軍事色が濃厚な時代で、学科より体力を重視していたためだろう。不合格となり、2年ほど家にいた」と新川。八重山中に入学していた2歳上の兄や同級生は鉄血勤皇隊に動員された。

 敗戦によって軍国主義のくびきから脱し、コザ高で開放感に触れた新川は1950年、琉球大学に入学。「琉大文学」などで文学・評論活動を展開していく。

 (編集委員・小那覇安剛)
 (文中敬称略)

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