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コザ高校(2)沖縄を代表する2人の音楽家が学びつつ、卒業しなかった理由 <セピア色の春ー高校人国記>


この記事を書いた人 Avatar photo 大城 周子
備瀬善勝氏

 1949年、音楽家の普久原恒勇(88)は鹿児島に向かう密航船に乗った。普久原は前年、コザ高校を退学していた。
 「与論、沖永良部、喜界と島伝いに鹿児島に向かった。夜は民家に隠れて、航行は夜。見つかるといけないので甲板に出てたばこを吸うこともできなかった」

 鹿児島に着いた普久原は、「チコンキー・フクバル」の名で知られる養父、普久原朝喜が暮らす大阪へ。家業のマルフクレコードを手伝いながら音楽を学んだ。「芭蕉布」など県民に歌い継がれる「普久原メロディー」の前史である。

 32年、大阪生まれ。幼少時に越来村に渡り、越来国民学校で学んだ。44年、県立二中に入学したが戦争で授業どころではなく、戦後、コザ高校に入った。途中で室川初等学校から現在地に学校が移る。
 「学校から『スコップを持って来なさい』と言われた。整地ですよ。学校の周囲は山みたいなもの。ブルドーザーはなく、生徒が時間をかけて整地した」

 普久原は入学から数カ月で退学する。「校内にはまだ軍国主義のなごりがあった。よく先輩たちに殴られ、嫌になった」というのが退学の理由であった。その後、親類から叱られてコザ高校に再入学し、1年生をやり直した。

 在学時の校長は琉球古典音楽の研究者として知られる世礼国男。コザ高校校歌の作詞者でもある。「私たちはビンダレー先生(シンシー)と呼んでいた。かぶっていた帽子がビンダレー(洗面器)みたいだったから」と普久原は語る。

 米国人への抵抗を感じる出来事があった。
 「校舎建設のため米軍が寄付をするといい、通訳が朝礼にやってきて『サンキュー』とお礼を言う練習を強制された。これは支配者と被支配者の関係だ。不満を感じるけど、口に出したら先生に叱られるので黙っていた。これでは戦前と全く同じだ」

 その後、普久原は再びコザ高を退学した。48年の6・3・3制移行で同じ学年を2度履修しなければならないことを知り、憤慨したためだった。この年、ハウスボーイとして米軍基地で働き出す。

 「当時の米兵は字が書けない人が多かった。ラブレターを書きたいという軍曹に頼まれ『LOVE』のつづりを教えたことがある。僕はコザ高校生だったんだから、『アイ・ラブ・ユー』くらいは学んだよ」

普久原恒勇氏

 音楽プロデューサーの備瀬善勝(81)もコザ高校で学んだ。「ビセカツ」の筆名で知られる作詞家でもあり、普久原との共作も多い。

 39年、那覇の生まれ。44年9月、本部町渡久地に引っ越し、10・10空襲を体験した。戦後、コザで暮らすようになり、54年にコザ高校に入学した。
 活発な生徒だった。「高校1年で演劇クラブを作った。ウチナー芝居や映画もよく見た」と振り返る。文芸クラブにも所属し、文芸誌「緑丘」に詩や評論を寄せた。

 その頃、演劇クラブに入りたいという1学年上の先輩が訪ねてきた。「高宮城実政さん。後に沖縄芝居で活躍する北村三郎さんです」
 コザ高13期として卒業する直前、備瀬は家庭の事情で本部町に引っ越した。高校3年の3学期から北山高校に通ったが、週末はバスでコザに戻り、演劇クラブの活動に参加した。卒業校は北山高校だったがクラブ活動はコザ高生を貫いた。

 卒業後、警察官などさまざまな職業を経験した。コザの製パン工場に勤めていた頃、普久原と出会う。68年、佐藤栄作首相を皮肉った「帰って来たよ」に普久原が曲を付け、男性4人組のコーラスグループ・ホップトーンズが歌った。作詞家ビセカツの誕生である。

 「沖縄にやって来て『沖縄が復帰しない限り、日本の戦後は終らない』と発言した首相に『ホラ吹きやがって』と言いたかったんだ」

 70年、キャンパスレコードを開店。作詞や音楽プロデュース活動と並行して、「芝居塾ばん」で北村と役者の育成に取り組んだ。

 コザ高校で学びながら卒業しなかった普久原、備瀬の2人は2018年、JASRAC音楽文化賞を受賞した。受賞理由は「沖縄文化に根差した多彩なジャンルの作品を全国に発信してきた」であった。

(編集委員・小那覇安剛)
 (文中敬称略)