広報映像で安全を強調 住民の沈静と教化を意図 米軍の「心理作戦」から分かること 寄稿・清水史彦<隣り合わせの危険ー毒ガス移送50年>


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1971年5月15日に改訂され、沖縄人の怒りを鎮めるための心理作戦などを盛り込んだ琉球列島米国陸軍の「レッドハット作戦計画」(県公文書館所蔵)

 1971年1月13日に行われた第1次毒ガス移送の終了後、琉球列島米国民政府は、ある広報映像を作成した。第1次の移送シーンと米国内での移送シーンを結合したこの映像は、一貫して「レッドハット作戦の安全性」を強調していた。

 本稿では、この映像作品を「レッドハットフィルム」と称することとし、琉球列島米国陸軍の作成による「レッドハット作戦計画」を読み解きながら、「レッドハットフィルム」が作成された背景およびその目的について述べてみたい。

「心理作戦」の追加

 琉球列島米国陸軍の作成による「レッドハット作戦計画」は、その名の通りレッドハット作戦の全容を示す計画書である。この計画書は1970年8月25日付で策定され、その翌年、第1次毒ガス移送の終了後の1971年5月15日付で改訂されている。

 1970年8月のオリジナルと1971年5月の改訂版との決定的な違いは、1971年の改訂版に、「心理作戦」という新たな「作戦」が計画として盛り込まれている点にある。 琉球列島米国陸軍が「作戦計画」が改訂した背景には、第1次移送時の広報活動が不成功であったとの米軍の認識があった。第1次移送の終了後、レッドハット作戦の指揮官であったジョン・ヘイズ陸軍少将は、住民の要求や不満に対し、ビラ、ラジオ、テレビを活用し、米軍の安全措置に関する説明が重要であると発言している。

 ヘイズの発言を見るまでもなく、毒ガス移送に対する住民の反発は極めて大きいものがあった。第1次移送をめぐって、美里村(現沖縄市)や具志川市(現うるま市)といった移送コースの周辺住民からは、琉球政府に対して安全対策への疑義が呈された。美里村民から琉球政府に送付された要請書には次のように記されている。

 「『命を守る』という至上の問題に直面して、ここに人々は団結して闘い、要求する知恵と勇気を見つけ出した。そこに人間性の尊さと民主主義の尊さとを力強く感ずる。われわれは、命を守るという追いつめられた立場から米軍の一方的移送コース決定に断固反対することを確認するものである」 続いてこの要請書には「自らの生命の安全のため毒ガスの移送に対して断固反対するものである」と宣言されており、この意思表明は、その後、阻止行動に移されていく。その結果、第1次毒ガス移送は、当初予定されていた1971年1月11日から1月13日へと延期されたのであった。

「無知な周辺住民」

 このような第1次移送をめぐる状況は、「心理作戦」で詳細に分析されている。その冒頭には、「総じて沖縄人は、なかでもとりわけコンボイルートの周辺住民は、主に無知と誤った情報を通じて、化学兵器に恐怖を感じている。化学兵器への彼らの恐怖心は、感情的な問題になっている」とある。

 「コンボイルートの周辺住民」、すなわち、美里村民、具志川市民といった移送ルートの周辺住民を「無知な周辺住民」と見なし、「誤った情報」によって毒ガス兵器に「感情的な恐怖心を抱いている」との見解が示されているのである。 また、移送ルートの周辺住民は、「無知」であるばかりか、「抵抗勢力」としても見なされている。

 「抵抗勢力」という項目には、沖縄人民党、全軍労、復帰協などの政党や運動体のほか、沖縄教職員会、沖縄県労働組合、そして美里村毒ガス撤去安全対策委員会の名称が並んでいる。これらの組織が「抵抗勢力」と見なされた理由として、「沖縄からジョンストン島への化学兵器の初期の移送に対して反対活動をした」からであると説明されている。

 とりわけ、美里村毒ガス撤去安全対策委員会については「1月13日の化学兵器の移送の間、抵抗勢力の中で、美里村毒ガス撤去安全対策委員会は中核的なポジションを占めていた。この組織が主にコンボイルートの周辺住民で構成されていたからである」との分析がなされている。「コンボイルートの周辺住民」よって構成される美里村毒ガス撤去安全対策委員会が、「抵抗勢力」の中核的な存在として見なされているのである。

 続いて「心理作戦」には、その実行段階に関する計画が記されている。「心理作戦」の実行段階は、「準備段階」、「教化段階」、「作戦段階」の三つの段階から構成されており、第2次毒ガス移送の開始前としては、「教化段階」により多くの日数が割かれている。この「教化段階」では「すべての通信メディアの最大限の活用」が謳(うた)われており、「レッドハット作戦の安全性」を沖縄住民や米国人への「重要メッセージ」としている。

 また、「レッドハット作戦の安全性」をより効率的に伝えるべく、メディアの視聴者を「主要ターゲット」、「第二次ターゲット」の順に割り振っており、優先度の高い「主要ターゲット」に位置づけられているのは、移送ルートの周辺住民のみである。 さらに「心理作戦」は、その目的を5項目にまとめている。そこには「米国と沖縄の協力を通じて成し遂げられるものであることを沖縄人に納得させること」、「米国は可能なことはすべて行っているとの信頼に沖縄人を引き込むこと」などが記されているが、その一つに「沖縄人の怒りを鎮め、かつ邪魔をさせないように沖縄人を説得すること」との記述を見ることができる。

 「心理作戦」が美里村毒ガス撤去安全対策委員会を「抵抗勢力」の中核的な存在としてみなしていること、そして「主要ターゲット」が第1次移送ルートの周辺住民であることを考えれば、「沖縄人の怒りを鎮め、かつ邪魔をさせないように沖縄人を説得すること」こそが、「レッドハット作戦」改訂版「心理作戦」の最大の狙いだったといえるだろう。

 「レッドハットフィルム」は、このような「作戦」の一環として作成されたのである。

内包するまなざし

 1971年5月11日、琉球放送では午後6時から午後6時30分にかけて「〈特別番組〉第一次毒ガス移送をふりかえって」という番組が放映された。「レッドハットフィルム」自体は30分にも満たない短いフィルムで、広報番組らしく、映像とナレーションが淡々と進行するのみである。全体として抑揚の感じられない映像作品であるとはいえ、このフィルムが「無知な人々への教化」というまなざしを内包する点については、やはり留意すべきであろう。

 レッドハット作戦から50年を経た現在、在日米軍はSNSを駆使した広報活動を展開している。在日海兵隊のツイッターを見る限り、有機フッ素化合物「PFOS」の流出事故などへの対応についても、おおむね「良き隣人」を演出しているように見受けられる。彼らの発する言説、映像には、どのようなまなざしが内包されているのだろうか。50年前の「レッドハットフィルム」が、その問いの手掛かりになるように思われるのである。


 

 しみず・ふみひこ 1969年東京都生まれ。(公財)沖縄県文化振興会公文書管理課公文書専門員。主な論文に「毒ガス撤去対策本部の設置と改編~第1次毒ガス移送を中心に~」、「毒ガス兵器移送計画にみるアメリカの沖縄認識―レッドハットフィルム(1971)を例に―」など。