【独自】32軍壕の試掘 司令中央部まで十数メートルに迫る 93・94年度の県調査 沖縄戦時の爆破箇所も 


【独自】32軍壕の試掘 司令中央部まで十数メートルに迫る 93・94年度の県調査 沖縄戦時の爆破箇所も 
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報告書では、司令部中央部への到達を「関係者に与えられた命題」とも記されている(「県旧第32軍司令部壕試掘調査業務(Ⅱ期)報告書」より)

 県が1993~94年度に実施した首里城地下の日本軍第32軍司令部壕の試掘調査で、中央部への到達を「最重要」と位置付け、調査地点が十数メートル前まで近づいていたことが分かった。中央部に到達するためのルートも3案検討していた。本紙が情報公開請求で入手した、県の試掘調査業務報告書に記されていた。報告書は内部資料で、これまで公表されていなかった。壕中央部の調査を巡っては落盤の恐れなどの危険性が指摘されていたが、県が具体的な方策を検討していたことが本紙の情報公開請求で明らかになった。

到達経路検討も未実施

 県は22日に「第32軍司令部壕保存・公開検討委員会」の初会合を開く。中央部の調査をどう検討し、議論するかも注目される。

 沖縄戦に備え、第32軍は首里城地下に大規模な司令部壕を築いた。壕中央部は「命令下達所」や「情報室」など主要機能があり、沖縄戦を指揮する場所だった。県の試掘調査は、中央部を調査して司令部壕の全貌を明らかにし、歴史的遺産として、保存の価値や方法を検討するための資料を得る目的だった。日本工営に調査を委託した。

 報告書によると、93年度は首里金城町の第5坑道から試掘を開始した。94年度は並行して守礼門側にある第2、第3坑道からも試掘した。第2坑道の迂回(うかい)道から中央部への到達まで12~13メートル付近の地点で、日本軍が首里の司令部壕を放棄し、摩文仁に撤退した際、大規模に爆破した箇所にまで到達した。中央部に届くまで(1)迂回路増設案(2)爆破箇所通過案(3)迂回路新設案―の三つのルートの施工案を検討。概算工費や長所・短所を比較した結果、最も費用が安いなどの理由で(1)案を最有力とした。しかし翌年度以降、試掘調査事業は実施されず、中央部への到達は実現しなかった。県は費用と落盤など壕内の悪条件を中断の理由としている。

 調査に関わった元知事公室長で、第32軍司令部壕保存・公開を求める会副会長の高山朝光さんは「当時、まだ調査中という段階のため内部資料にしたのだろう。調査を継続しなかった理由として、県政が95年までに平和の礎(いしじ)建設などを優先して予算を充てていた」と語った。

(中村万里子)