<芸歴30年・津波信一に聞く>留学やめて「笑築」へ 県民が新しい笑いに飢えていた (3回連載の1)


社会
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
芝居などについての思いを語る津波信一さん=15日、宜野湾市宇地泊(喜瀬守昭撮影)

 90年代の県内お笑いブームをリードし、映画出演や劇団旗揚げなどエンタメ業界に話題を提供してきたタレント・津波信一がことし、芸歴30周年を迎える。津波が沖縄のエンタメ業界で過ごした日々と今後の展望を全3回にわたり紹介する。1回目はデビューに至るまでの日々を振り返ってもらった。(聞き手・藤村謙吾)

Q:高校卒業後、笑築過激団に入り、過激団のテレビ番組『お笑いポーポー』に出演して、人気者になった。何がきっかけだったのか。

 「高校生の頃、実家の島尻郡佐敷町(現南城市)からバスで、沖縄ジァンジァンに笑築過激団の舞台を見に行き、ネタをまねていた。また、高校3年生のとき、校門でNHKのインタビューを受けたら、面白いと思ってくれたのか、ディレクターが声を掛けてくれて、NHKのドラマに出ることになった。配達人の役だったが、制作への熱意に感じるものがあった」

Q:高校時代、すでに沖縄の芸能界を意識していたのか。

 「当時は『沖縄でやっていく』というよりは、シマから出たいという思いが強かった。ただ、九州の大学を受けて経済学部に合格したけど、僕はおうちの経済(家計)が分かっておらず進学がかなわなかった。悲しむ自分の姿を見て、翌年おじさんがカナダ留学の費用を出してくれることになった。その間は、出演したNHKのドラマの脚本家の名刺を見つけたので、その方の働く病院で8カ月ほど介助や掃除などを手伝っていた」

Q:笑築過激団に入ったきっかけは。

 「病院で働いていたとき、ふと笑築過激団のことを思い出し、沖縄市の過激団の事務所を訪れた。そして、研究生という形で入れることになったらどんどんのめり込んでいった。それで、やっぱりカナダ留学には行かないと言ったら家を出された。それが19歳のとき。そのまま沖縄市の呉服店の一角にあった、3畳ほどの大きさの(団長の)玉城満さんの事務所に転がり込んだ」

Q:玉城の下ではどんな仕事をしていたのか。

 「事務所の電話番と店番、免許を持っていない玉城さんの運転手をやっていた。運転手だから玉城さんに付いて、お笑いポーポーが始まるときにテレビ局に企画を持ってったり、スポンサーを集めたりする姿を近くで見られたのはラッキーだった。お笑いポーポーは夜中の放送で誰も見る人がいないと思ったら、すごい視聴率をたたきだした」

 「県民がうちなーやまとぐちの軽く見られる笑いに飢えていた時代だったのだろう。復帰20周年のタイミングでもあったので本土のテレビに取り上げられたり、本土公演をしたりした。玉城さんがよく言っていたが、沖縄の人たちが『自分たちで自分たちを笑えるようになっていった』時代だった」


 2022年に東京と沖縄で、津波が代表取締役を務める劇団「TEAM(チーム) SPOT(スポット) JUMBLE(ジャンブル)」と劇団スーパー・エキセントリック・シアターが現代劇「アカハチ」の公演を予定している。同劇のリーディング公演「アカハチ」の動画配信が2月1日から7日まで行われる。視聴チケット販売はイープラス。料金は1300円(システム利用料として別途220円要)。詳細はTSJホームページ。