選手の「考える力」で強豪に 花園準優勝・京都成章の指導法 監督は琉大ラグビー部出身


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オンラインでインタビューに応じる湯浅泰正監督=16日

 9日に閉幕した第100回全国高校ラグビー大会。節目の花園で、初の準優勝を果たした京都成章を30年以上率いる湯浅泰正監督(56)は、琉球大ラグビー部の出身だ。琉大在学中の1980年代、沖縄は競技に関する情報が少なく、部員同士で強くなる方策を日々模索していたという。生徒の「考える力」を養い、京都成章を真の強豪に育て上げた現在の指導法に学生時代の経験が重なる。16日、湯浅氏がオンラインで琉球新報のインタビューに応じた。 (長嶺真輝)

 京都成章は花園で4強3度の強豪。今回は同じシード校の東福岡を準決勝で破り、京都勢として13大会ぶり、同校初の決勝進出を果たした。前年優勝の桐蔭学園(神奈川)に15―32で敗れたが、同点で折り返すなど激しく競り合った。

 京都府亀岡市出身。父がバスケットボールの指導者で、中学はバスケ部に所属した。当時の夢はバスケの指導者になること。しかし亀岡高に進学すると友達の誘いでラグビーを始め「ボールを持って自由に走り回れるのが楽しかった」とのめり込んだ。目標が「ラグビーの指導者になる」ことに変わった。

 琉大教育学部へ進むと、ラグビー部では1年時からレギュラーのセンターとして活躍した。「とにかく負けず嫌い」という性格。強豪ではなかったが「なんとかして勝つ方法がないか常に模索していた」という。当時、大学ラグビーを席巻していた大東文化大などの戦術を雑誌で学び、仲間と常に語り合った。「情報が少ない中で想像力を膨らましていた」と懐かしそうに振り返る。

■ピラニアタックル

 卒業後は京都成章に勤め、2年目の87年からラグビー部監督に就いた。当時の京都は伏見工(現京都工学院)や花園、同志社など強豪ひしめく群雄割拠の時代。体格の良い有望選手は他校に流れ、入部してくるのは小柄な生徒が多かった。強豪相手の試合では1対1で正面からタックルしても分が悪い。「守備を鍛えて接戦に持ち込めば、勝機も出てくる」。模索が始まった。

 変革したのはタックルの角度だ。数学好きという湯浅監督。直角を成す2辺と斜辺の長さが「1:1:√2」の関係であることを示した三平方の定理を持ち出し、生徒に説明した。

 「横に移動して正面に回って縦に仕掛ける(1+1)よりも√2(1・414…)の方が距離が短い。斜めにいけ」。それでも足りない個々の力を補うために群がるタックルを説いた。「相手の力が10で自分が4なら、1人目が力を削れば相手は6に、次がいけば2になる。もう1人がいけば勝てるやろ」。1人に2、3人が向かうためリスクも伴う。「その代わり相手の3倍動こう」。群がるように次々とタックルを仕掛ける京都成章の組織的な防御はいつからか「ピラニアタックル」と称され、相手から恐れられるようになった。

 結果は徐々に表れる。監督15年目の2001年の第81回大会で花園初出場を果たすと、88、89、94回大会で4強まで駒を進めた。

■大病で指導変化

 2013年、転機が訪れる。最も進行が深刻な「ステージ4」の扁桃(へんとう)腺がんを患い、リンパ節にも転移した。同年10月に手術を受け、抗がん剤治療も始まった。監督を退こうと考えたが、選手に引き留められた。「先生、待ってますから」。翌年4月まで休職し、復帰した。

 根気強い治療で大病を乗り越え、指導哲学に変化が生まれた。以前は「せっかちなので『こうせえ、ああせえ』と答えをどんどん言っていた」と言うが、今は描く戦略への道筋を教えるくらい。死の危機に直面し「生徒にも今やれることをやってもらいたい」と考えるように。「成長が早い子もいれば、遅い子もいる。見守ってやらないと」

 自分で考える。その姿勢は専門誌などの少ない情報を頼りにラグビーに向き合った大学時代と通底する。京都成章では自分で考えて決めると、仲間に協力を求め、行動に移し、評価することを重視する。その繰り返し。選手個々の成長が組織的な戦術を支え、つかみとった初の準優勝を振り返り「ようやった。うまいこといってるんちゃいますか」とうれしそう。残す目標は優勝だ。「ちょっとずつ悔しさも出てきた。ただ待つことも大事。沖縄タイムじゃないけど、のんびりいこうかなと」と穏やかな表情を見せる。

 3月には県協会の招きを受け、招待試合でチームを率いて来県予定。「沖縄の人たちには本当にお世話になった」と大学時代のラグビー仲間とは今でも親交が深い。「沖縄ラグビーの発展を期待してます」と「第二の古里」に思いをはせた。