<芸歴30年・津波信一に聞く>「笑築」の看板離れて自分の力で(3回連載の2)


この記事を書いた人 Avatar photo 上里 あやめ

 ことし、芸歴30周年を迎えたタレント・津波信一に、芸歴を振り返ってもらうインタビュー企画。第2回は笑築過激団退団の背景と、退団後の活動を聞いた。 (聞き手・藤村謙吾)

地元の佐敷町での活動などについて語る津波信一さん=15日、宜野湾市宇地泊(喜瀬守昭撮影)

 Q:笑築過激団のテレビ番組「お笑いポーポー」出演で一気にブレイクしたが、1995年に5年余り活動した過激団を退団し、地元の佐敷に戻った。何があったのか。

 「当時、沖縄マルチタレントの川満しぇんしぇ~(川満聡)の独立や南島詩人の平田大一さんとの出会いがあった。川満さんは地元の宮古島、平田さんは小浜島を『武器』に活動していた。自分は笑築の看板に守られ甘えていると気付き、自分も武器を持たないとと思い地元に戻った」

 Q:佐敷に戻ってからどんな活動をしていたのか。

 「笑築時代の仕事はなくなったが、戻ったタイミングでシュガーホールができた。ただ、お客さんは那覇の人が多いなど、地元の人にはなじみがなかった。幸い(ホールを盛り上げてほしいと)声が掛かり、地域住民による劇団『賞味期限』を作った。地元を出たがった人間なのに、地元のことを知れば知るほど、面白くなり、分かりたくなっていった。青年会をつくり、会長も務めた。92年に出演した映画『パイナップルツアーズ』の監督をした中江裕司さんに声を掛けられて、99年の映画『ナビィの恋』に出るまでは、まさにグローカル、地元に全力の日々だった」

 Q:ナビィの恋の撮影時期に結婚した。30代を目前にして、心情に変化はあったか。

 「子どもも生まれ、責任もできた。ここまで来たらこの世界で生きてやろうと思った。理解してくれる人、応援してくれる人が増え、やってきたことがうまく実になっていき毎日が楽しかった」