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コザ高校(4)米兵の飲酒運転が女生徒の列に…人権、政治への目覚め 比屋根照夫さん、謝名元慶福さん<セピア色の春ー高校人国記>


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比屋根照夫氏

 1957年2月に刊行されたコザ高校文芸クラブの文芸誌「緑丘」8号に「生活の中から」と題した短歌の連作が掲載されている。作者は13期で琉球大名誉教授の比屋根照夫(81)である。土地を守る4原則を掲げた「島ぐるみ闘争」の最中に詠まれた。

 「土地接収の脅威吾等を覆ふ黙然として逆ふ術なき吾等農民」

 「吹き荒ぶ風と雨に感覚はうせて百姓の苦しみは全身を覆いて去らず」

 「緑丘」には短編小説、詩歌、評論など多彩な作品が収められている。「激烈な反米意識が『緑丘』でストレートに表現されていた。言葉は硬いけれども、当時の青年たちの思いが出ている」と比屋根は語る。

 39年に名古屋で生まれた。終戦後の46年に旧美里村登川に引き揚げ、基地の金網を見て育った。夜になると米兵がたびたび集落を襲った。「私たちの村だけで幾人もの女性が被害にあった」

 55年にコザ高に入学した。明朗闊達な校風の中、生徒たちは部活動を楽しんだ。男女が手をつなぎ、フォークダンスを踊ったこともあったのも懐かしい思い出だ。「戦前の軍国主義から解放されたことが反映したのだろう」と回想する。

 そんな明るい高校生活を痛ましい事故が襲った。コザ十字路付近で56年11月、酔った米兵が運転する車両が登校中の女生徒の列に突っ込み、死傷者が出た。亡くなった女生徒は比屋根の1学年後輩だった。全校生徒で葬式に参列した。忘れがたい悲しい記憶である。

 「沖縄に人権はなかった。高校生は反米・反植民地運動の影響を受け、政治意識は高まった」

 琉球大学に進み、新聞部の部員となる。59年6月の宮森小米軍ジェット機墜落事故では生々しい現場を取材した。その時、同世代の一人の友人を訪ねた。「中屋幸吉君です。姪を失い、憔悴(しょうすい)していた。彼はそれをきっかけに、いろんな政治活動に入った」

 中屋は66年、自ら命を絶つ。遺稿集「名前よ立って歩け」の改題「一つの終焉(しゅうえん)―沖縄戦後世代の軌跡」の中で比屋根は「沖縄の戦後世代は、こうした異民族支配の中で時代の重圧と矛盾に覚醒する」と記す。

 比屋根は琉球新報社に勤めた後、沖縄近現代の思想と言論の研究者としての道を歩む。

謝名元慶福

 戯曲家の謝名元慶福(79)は15期。1年生のころ、「緑丘」で作品を書く比屋根や演劇クラブで活動する備瀬善勝ら先輩の姿を見ていた。「今思うとすごい人、変わった人たちがいた」

 42年に那覇で生まれ、父の生まれ故郷である平安座島で育った。この島で「10・10空襲」に遭っている。初めて戯曲を書いたのは中学生の頃だった。「島にあった親子ラジオに放送劇を書いていた。作家になる夢を持っていた」

 島には劇場もあった。板で囲った簡単な造りで観客は草むらに座って芝居を見た。「高安六郎さんら、いろんな芝居が来ていた。稽古も見ることができた」と謝名元は語る。戯曲家の原点である。

 コザ高校の自由な雰囲気にあこがれ、入学した。放送クラブに所属し、校内放送を担当したり、放送劇を作ったりした。放送部には演出家の幸喜良秀らと共に演劇集団「創造」で活動し、戯曲「人類館」を書いた知念正真がいた。「知念さんが『俺も入れてくれよ』と言ってきたんです」

 文芸誌「緑丘」に集う文芸クラブのメンバーと同様、放送クラブも米統治下にある沖縄と向き合うようになる。謝名元ら部員は「デンスケ」と呼ばれた録音機を肩に掛け基地の町を歩き回った。コザ高の女生徒が犠牲となった56年の事故も取材した。

 「事故は僕がコザ高校に入学する前年のことだった。嘉間良に住んでいた遺族を訪ねて話を聞き『基地の町から』という番組で取り上げた」

 謝名元はコザ高を卒業した後、東京・中野にあったテレビドラマ研究所で学び、帰郷後に琉球放送やNHKで働く。並行して創作活動に取り組み、北島角子の一人芝居「島口説」や「命口説」などの話題作を次々と発表した。

 基地の町で青春期を送った謝名元の作品には米統治と向き合い、戦後を生き抜いた島人の姿が刻まれている。

(編集委員・小那覇安剛)
 (文中敬称略)