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コザ高校(5)「島ぐるみ闘争」目の当たりに…コザ騒動「時代が生んだ事件」 新川秀清さん、稲嶺勇さん<セピア色の春ー高校人国記>


この記事を書いた人 Avatar photo 上里 あやめ
新川秀清氏

 コザ市、沖縄市を通じて初のコザ高校出身市長となったのは11期の新川秀清(84)であった。1990年に初当選。米軍基地を抱える沖縄市政を2期担った。

 37年、旧越来村中原で生まれた。かつての屋敷は現在、嘉手納基地の中にある。沖縄戦で上陸した米軍に捕らわれ、現在の宜野座村福山にあった収容所に送られた。「福山は忘れることができない。木の下に寝て暮らした。惨めだったよ」

 越来に引き揚げた新川は諸見小学校、コザ中学校を経て53年にコザ高校に入学した。同期に役者の北村三郎がいた。本名は高宮城実政。「彼とは一緒に遊んだ。当時から『芝居しー(役者)になるんだ』と決めていた」と振り返る。

1950年代のコザ高校の正門(「コザ高13期卒25周年記念誌」より)

 「銃剣とブルドーザー」という言葉に象徴される米軍の強制土地接収と、それに抵抗する「島ぐるみ闘争」が広がった時代だった。新川は伊佐浜の土地接収を目の当たりにした。

 「当時、各地の高校生が土地接収に反対していた。コザ高でも先輩が『伊佐浜に行こう』と呼び掛け、私も授業を放り出して伊佐浜に向かった。ところが、中には入れずにブルが家を壊すのを見ていた。何もできなかった」

 卒業後、トラック運転手を経て中部地区の社会福祉協議会で働き、戦災孤児や女性問題に取り組み「福祉の母」と呼ばれた島マスと出会った。青年団活動にも参加し、復帰後に社会党県議となる4期の中根章や沖教組中頭支部委員長となった5期の有銘政夫らコザ高校の先輩の薫陶を受ける。

 その後、大山朝常市長の誘いでコザ市役所に入る。72年の施政権返還を前にした大山の言葉を新川は忘れることができない。

 「大山先生は『ヤマトの世からアメリカ世、アメリカ世からまたヤマトの世というけどヤマト世になってはいけない。ウチナー世にならなければいけないよ』と言っていた。先のことを見ていたんでしょうね」

 新川は県議を経て、現在は嘉手納基地爆音訴訟の原告団長として米軍に奪われた「静かな夜」を取り戻そうと訴え続けている。

稲嶺勇氏

 1999年に沖縄市出身初の沖縄署長となったのが17期の稲嶺勇(77)である。「警官になったコザ高校出身者は多い。僕らは『中部の名門コザ高校』と呼んでいるんです」といたずらっぽく話す。

 43年、旧越来村の嘉間良で生まれ育った。北谷町上勢頭にあった父祖の地は米軍に接収された。

 59年、コザ高校に入学。嘉間良から歩いて登校し、バス賃は小遣いに回した。下校時に仲間と天ぷらを食べるのが楽しみだった。

 「現在の銀天街の天ぷら屋に集まり、ヌチャーシー(お金を出し合って)して天ぷらを買って食べた。天ぷら屋は進学や就職などの情報交換の場だった」

 在学時は野球やバスケットボール、柔道が強かった。自身は陸上競技の800メートル走で学校代表となった。 入学の時点では「島ぐるみ闘争」は終息に向かっていた。英語のヒアリングの授業を担当する米兵が学校を訪れた。放課後は野球のノック練習に興ずる米兵もいた。「僕らの間では反米感情はなかった」

 59年1月、アルバイトで新聞配達をしていた稲嶺は偶然、殺人事件の第2目撃者となりコザ署の事情聴取を受ける。その経験から警察官を目指し、62年に那覇署の巡査となった。普天間署の刑事だった70年12月、「コザ騒動」に遭遇する。「時代が生んだ事件」というのが稲嶺の認識である。

 2004年、県警本部刑事部長を最後に40年余の刑事生活を終えた。米軍事件で容疑者の身柄を取れず悔しい思いをした。「事件の真相を解明し、悪いことをやった者を捕まえるという点では米側の刑事も同じだった。ただ政治的な問題で『上の方』とは感覚は違ったような気がする」

 コザ高校の先輩で親交があった一人に県議だった中根章がいた。「革新の県議となぜ仲が良いのかと聞かれた。だけど私たちは同じ『名門コザ高校』の出身だ」と笑う。

 退職後、稲嶺は障がい者のスポーツを支援する「スペシャルオリンピックス」に携わる。17年から児童養護施設・美さと児童園を運営する国際福祉会の理事長を務めている。
(編集委員・小那覇安剛)
 (文中敬称略)