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コザ高校(6)コザが育てた歌とビート 川満勝弘さん、佐渡山豊さん<セピア色の春ー高校人国記>


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川満 勝弘氏

 「かっちゃん」の愛称で知られるロックミュージシャンの川満勝弘(76)はコザ高校の18期である。入学は1960年。ロック少年ではなく卓球少年だった。「昔のことなので、もう忘れたなあ」

 44年、宮古の生まれ。小学4年生の頃、出稼ぎに来ていた母を追って、コザにやって来た。当時のことを2007年の本紙取材に語った。

 「僕はこんな僕に生まれたかったんじゃない。コザという街が、勝手にこんな僕を生んでしまったんだ。宮古からコザに来たのは母に会うため。10歳になっていたかな。通りには『アメリカー』がたくさんいるし、ジュークボックスからは絶え間なく音楽が流れていた。見るもの、聞くもの、におうものすべて、子どもには刺激が強すぎる街だった」

 コザ中学校に通っているころ、現在の一番街にあった卓球場に出入りし、後に音楽活動を共にする喜屋武幸雄と競技を楽しんだ。「何となく卓球をやっているうちに強くなったよ」と振り返る。

 事実、川満は強かった。59年9月の第1回中学校卓球選手権大会の個人戦で優勝した。コザ高校でも卓球部に所属し、62年の岡山国体に出場した。ロックミュージシャンの意外な一面である。

 卒業後の63年に上京し、既に東京で働いていた喜屋武らとバンドを結成。64年に那覇でコンサートを開いた。エンターテイナーかっちゃんのスタートである。

 「コザ騒動」が起きた70年12月20日未明、川満は胡屋十字路近くで演奏をしていた。演奏に夢中で外の騒ぎには気付かなかったという。翌年、「コンディショングリーン」を結成した。バンド名は台風時などに軍関係者の外出や繁華街への立ち入りを禁じる米軍基地の警戒レベルに由来する。

 コロナ禍でミュージシャンの活動が制限されている。自宅で過ごす川満は電話の向こうで「近いうちに出るはずよ」と話した。その予告通り、2月5日から3日間、ライブ映像をネット配信した。

佐渡山 豊氏

 シンガー・ソングライターで24期の佐渡山豊(70)はコザ騒動から50年を経た昨年12月19日夜、胡屋十字路にあるミュージックタウン音市場のステージに立った。代表曲の「ドゥチュイムニィ」や差別の連鎖に斬り込んだ「人類館事件の歌」などと共にコザ騒動をテーマとした「焼き打ち通りのバラード」を歌った。

 騒動の夜、琉球大の学生だった佐渡山は中の町にあった仲間の溜まり場にきた。そこへ友人が飛び込んできた。

 「ゆたか、革命どぅ。とぉ、わったーもやろう」

 外に出ると、群衆が米軍車両をひっくり返し、火を放っていた。激しい住民の抵抗が、佐渡山には静かで整然とした行動に見えた。

 「飲み屋のおばさんたちが『黒人の車はやるな。彼らはわれわれと似ているから』と教えてくれた。とても冷静だった。何とあらがうべきかを知っていた」

 佐渡山も3台ほどの車をひっくり返した。

1970年12月20日未明に起きた「コザ騒動」

 50年生まれ。中学の頃から、兄が質屋で仕入れてきたギターに親しんできた。練習したのはフォークソングやロックではなく昭和の懐メロである。「家にあった古賀政男の『影を慕いて』のレコードを聞き、弾いていた」

 66年にコザ高校に入学。天体観測クラブを結成し、ギタークラブに入った。フォークソングの影響を受け、初恋の人を思い、オリジナルソングを作った。そのころ書いた日記を基に「ドゥチュイムニィ」が生まれた。

 教公二法阻止闘争や全軍労闘争に象徴される沖縄の激動を肌で感じた。闘う教員の姿に刺激を受けた。復帰への疑念も生まれた。

 「高校生の時に先生たちの活躍を見ていた。諸見小学校で担任だった有銘政夫さん、コザ中学校で教えてもらった崎原盛秀さんたちだ。この出会いがなければ今の自分はないかもしれない」

 沖縄の理不尽を見つめ、歌で展望を描いてきた佐渡山は「95年に始まった基地への抵抗は後退していないか、差別への抵抗は風化していないか」と危惧する。

 歌い始めて50年余。昨年10月、アルバム「やっとみつけたよ」を発表した。

(編集委員・小那覇安剛)
 (文中敬称略)