![](https://ryukyushimpo.jp/tachyon/legacy/002/202102/caa7a7d23513a0db5e78966943c72b28.jpg)
近代沖縄音楽は、大阪から始まったといっても過言ではない。すなわち、1927年、普久原朝喜(1903~81)が琉球民謡レーベル「太平丸福レコード」を設立したことが起点となった。大阪市西淀川区大和田町「富士瓦斯紡績会社の社宅がマルフクレコードのはじまりであった」(「大阪人権博物館紀要第9号、仲間恵子『太平丸福レコードと普久原朝喜』」)。琉球民謡の歴史が示すように、大阪と沖縄の交流は深い。大阪には、沖縄よりも沖縄らしいスポットがある。そこで育った歌手が石川陽子だ。
小浜 大阪生まれ?
石川 母方の祖母が大阪に居たので、生まれた病院は大阪。すぐ沖縄に帰ってきたみたい。
小浜 沖縄の太陽の下で遊び育った?
石川 はい、宜野湾と那覇。小学4年の時に大阪へ移り住んだ。
いつも三線がそばに
1897年(明治30年)頃から始まった集団的出稼ぎは、「圧倒的に大阪が多く、全体の42%を占めていた」(「沖縄県史」)。1925年(大正14年)には、当時の首里の人口(約2万9千人)に匹敵する程のウチナーンチュが大阪へ流れた。その半数近くは紡績業であった。沖縄現代音楽の元祖・普久原朝喜は1923年、20歳で大阪へ出稼ぎで来て築港工事や紡績工場勤務、行商や喫茶店経営を経て、マルフクレコードを設立する。吹込芸術家(アーティスト)の人材に、大阪では事欠かなかった。
小浜 大阪はどこ?
石川 豊中市。すぐ隣が尼崎(兵庫県)で、ウチナーンチュがいっぱいいました。学校帰りに毎日、おばあちゃんの沖縄料理店で沖縄そばを食べていた。
小浜 同級生に沖縄出身はいました?
石川 一人だけ、その子と最初に仲良しになった。お店があって、周りはみんな沖縄の人だから暮らしやすかった。言葉のなまりでからかわれたりしたけど、楽しかった。
石川陽子の祖母・エイ子は、ブームになる以前より沖縄料理「シーサー」という、沖縄から民謡歌手を呼んでライブなども催す老舗の居酒屋を切り盛りした。陽子にとっても快適な生活空間で、三線はいつもそばにあるおもちゃ、常連客のおじさん達が遊び相手であった。自然と三線に興味が湧き、独学で練習したという。
小浜 本格的に三線を習ったのは?
石川 高校生の頃、ちゃんと習いたいなと思って、普久原千津子先生の所へおばあちゃんが連れて行ってくれた。当時こんなすごい先生とは思わなかったので、もっと真面目に習えば良かったと後悔している。1年くらい習って千津子先生が沖縄に帰るというので、いったんやめたんです。
小浜 続けたいと決心したのは?
石川 専門学校に行って就職してから。理由は分からないけど、沖縄に行こうと思った。
![](https://ryukyushimpo.jp/tachyon/legacy/002/202102/721d6d0dea181a62c5a2a07a78051d94.jpg)
意を決し沖縄へ
陽子が通った三線教室こそ、沖縄音楽元祖・普久原朝喜の実家であり、先生は普久原家に嫁いだ「でいご娘」の三女・千津子であった。4人姉妹ユニット「でいご娘」は人気絶頂の80年、彼女の結婚を期に解散。17年後に再結成する。陽子に大城志津子を推薦したのは普久原千津子であった。陽子の祖母が志津子をよく知っていたこともあり、住み込みでの弟子入りが決まった。志津子師の経営する「はんた原」(1975~2005)と2階の自宅が修行の場であった。
小浜 これまでより実践的ですね。
石川 全然分からない歌ばかりで、ゆっくりな情歌は苦痛でした。大城門下の金城恵子さん、亀谷とみ子さん、喜久山節子さん等の大先輩が心配してくれて指導も受けた。
陽子は心が折れそうになったのと他の事情もあり、一度大阪へ戻る。そして再度意を决し、10年経ったら大阪へ戻る思いで、沖縄へ。
小浜 歌をあきらめなかった?
石川 教師免許の資格を取得したら大阪で教室を開くという夢があった。試験を通過するにつれて大阪に帰るという気持ちがなくなったかもしれない。
人まねはだめ
陽子の歌三線がメキメキと上達したのは金城恵子のそばで伴奏するようになってからである。強烈な個性を持つ恵子先輩の背中を追いつつも、呼ばれればどこでも歌い、東京、大阪とライブ活動も積極的に行った。CDもリリースした。
しかし、人まねばかりじゃダメで、もっと独自のカラーを出したいと考えていた時に出会ったのが2代目多嘉良カナであった。先代多嘉良カナ(1899~1971)は戦前の太平丸福レコード時代を代表する女性歌手の一人。実妹に日本女流作曲家の魁(さきがけ)・金井喜久子(1906~86)がいて、2代目カナは二人から芸道の手ほどきを受けた異色の歌手・舞踏家。陽子は2代目多嘉良カナの門をたたき、現在も稽古ををつけてもらっている。
小浜 これまた個性的な人と出会いましたね。
石川 やっぱりコアな部類の人に導かれて独自の道を歩もうとする自分が居て、それが何なのかを見つめるため、腹をくくってます。
「ステージだけではなく、出会った先輩たちの深い部分をもっと吸収して残したい」と陽子は力強く語った。
(小浜司・島唄解説人)
寂寞の心、千鳥に語る
千鳥小(ちぢゅーやぐわー) 沖縄民謡 編曲・大城志津子
一、誰(たる)ゆ恨(うら)みとてぃ
泣(な)ちゅが浜千鳥(はまちどり)
逢(あ)わぬちりなさや
我(わ)ぬん共(とぅむ)に
*千鳥(ちじゅやー)や浜居(はまを)てぃ
ちゅいちゅいな
二、義理(じり)や苦(くる)しむぬ
我儘(わがまま)やならん
ぬんでぃ此(く)ぬ世間(しけ)に義理(じり)ぬあゆが
三、義理(じり)と思(む)てぃ恋路(くいじ)忘(わし)らりてぃからや
何故(ぬゆ)でぃ踏(ふ)み迷(まゆ)てぃ浮名(うちな)立ちゅが
四、空飛(すらとぅ)ぶる千鳥(ちじゅやー)むぬやちょん云(ゆ)たれ
島(しま)ぬ思里(うみさと)に 便(いえい)すしが
~~肝誇(ちむぶく)いうた~~
「誰を恨んで泣いてるの、浜千鳥よ」と始まる「千鳥小」。石川陽子が大城志津子師より学んだ節の中で、最も感動し、歌いたいと思った歌。大城志津子といえば「はんた原」に代表されるような速弾きをイメージする人が多いが、スローな三線の、研ぎ澄まされた勘所と、強弱の音色を、目の前で歌われた時の心の鼓動の震えは忘れられないという。石川陽子ファーストアルバム「三味の喜び」(リスペクトレコード)にも意欲的に歌われている。
浜千鳥とは、浜辺に足跡を残す千鳥科の鳥類。望郷の心を表現して歌い踊る「浜千鳥(チジュヤー)」は琉球芸能を代表する一曲。そこから派生して、いろいろな千鳥「節」が生まれている。今回、大城志津子のレコード「千鳥小」(マルタカレコードTE―1055)を聴いてみた。驚いた。録音されたのが1967年で、志津子師若干20歳である。その歳にして、いわゆるブルースの域に達した志津子節に感動した。デジタル音源で聴けないのが残念である。