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コザ高校(8)定時制で触れた人の情 高校で披露しなかった歌三線 饒辺愛子さん、仲宗根創さん<セピア色の春ー高校人国記>


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コザ高校の正門。英字でも校名を記している

 沖縄市・中の町社交街の民謡クラブ「なんた浜」を拠点に歌う民謡歌手の饒辺愛子(78)はコザ高校の定時3期生。「肝がなさ節」などのヒット曲で県民に親しまれている。

 1942年、大阪府で生まれ、小学校入学前にコザに引き揚げてきた。諸見小学校、コザ中学校を経て58年、コザ高校に入学する。経済的な理由で定時制を選んだ。

 「学校で紹介されたお手伝いの仕事をしたり、ゴルフ場のキャディーをしたりしながら学校に通った。昼働いて夕方6時から夜10時まで授業。にーぶいしながら勉強した」

 同級生といっても年齢はばらばらで、家庭がある級友もいた。授業についていくのに必死で「もう辞めてしまおうと思ったこともある」という。そんな時、同級生や教師が支えてくれた。

饒辺愛子氏

 「1人も脱落しないようにクラスメートで助け合い、手取り足取り勉強を教えてくれた。先生も全員必ず卒業させようと一生懸命だった」と饒辺は語る。

 夕食は学校で食べた。トウモロコシ粉を油で揚げただけの具のない天ぷらなどの質素なもの。「一番のごちそうだった」という沖縄そばが楽しみだった。

 美空ひばりが好きだという饒辺は高校卒業後、「民謡を習いたい」という友人がきっかけとなり、沖縄民謡の黄金期を築いた歌手の一人、喜納昌永の元で学ぶ。その後、ラジオやテレビの民謡番組に出演し、一躍人気歌手となった。結婚で4年ほどの活動中断を経て、69年に「なんた浜」を開店した。嘉手苅林昌、松田弘一ら多くの民謡歌手とステージに立った。

 民謡歌手となって60年近く。街の移り変わりを見つめながら、沖縄の民謡界を生きてきた。そんな饒辺もコロナ禍に遭い、休業を余儀なくされている。しかし、負けてはいない。「つらくても、いつかは道は開ける。コザ高校定時制の時もそうだった。今度も歯を食いしばって頑張る」

 饒辺は「定時制に通って良かった。人の情に触れることができた」と振り返る。つらかった高校時代が今日の活動の糧となった。

仲宗根創氏

 若手民謡歌手の一人、仲宗根創(はじめ)(32)は61期。19歳の頃から5年半、「なんた浜」で歌った。

 88年生まれ。那覇などで暮らし、小学校3年の時に沖縄市へ。中の町小学校、コザ中学校を経てコザ高校へと進む。

 三線を学んでいた祖父の影響で3歳の頃から民謡に親しんだ。「孫の手に輪ゴムを引っ掛けて三線みたいにして遊んだ」という仲宗根は祖父と共に金城秀之の元で稽古を重ねた。最初に覚えた歌は「海のちんぼーらー」だった。

 沖縄市では松田弘一に師事。中学1年の時、照屋林賢が主催するオーディションでグランプリを取り、デビューアルバム「アッチャメー小」を発表する幸運に恵まれる。「せいぐゎー」の愛称で知られる登川誠仁に弟子入りしたのはコザ高1年の時だ。通学路の途中にあった登川の家を訪ね、稽古をつけてもらった。

 「5歳くらいの時、登川先生の『多幸山』を聞き、衝撃を受けた。中学3年の時に先生の門をたたいたが、すぐには弟子にはなれず、1年間通い続けた。先生は僕を試したのだと思う」

 登川の元で稽古に励んだが、高校で歌三線を披露することはなかった。郷土芸能クラブにも入っていない。「三線で目立つのは照れくさい。ラップやヒップホップをやっていた」と仲宗根。同級生と一緒に、人気のテレビドラマに登場するダンスを同級生と一緒に楽しむ高校生だった。

 卒業後、仲宗根は日本蕎麦(そば)店でのアルバイトや米軍基地内の美容室にタオルを配送する仕事をしながら歌い続けた。2015年11月、コザ高校創立70年記念式典の舞台に立った。「高校生の頃、自分を生かすことができなかった。きょう歌えて光栄です」と自分の思いを伝え、3曲ほど歌った。

 現在、ラジオ番組を担当するなど活動の幅を広げている。「稽古を重ね、歌を磨きながら、沖縄の歴史や生活のことも学びたい。生活の中から歌は生まれた。歌を歌いながら、沖縄のことを伝える歌手になりたい」と仲宗根は語る。

(編集委員・小那覇安剛)
 (文中敬称略)